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「幼い頃太陽を見るな、と母にいわれたが、6歳の時に一度見た、まぶしかったが、瞬きをこらえ続けると、まぶしさが消え始め、瞳孔が縮み、すべてがはっきりと見えた。その瞬間わたしは理解した。新しい仮説、われわれがらせんから創られたとしたら、われわれが従事するものすべてが「らせん」でみたされている。」(作中より)

「1、数学は万物の言語
2、全ての事象は数字に置き換え、理解できる
3、それを数式化すれば、一定の法則があらわれる
ゆえに全ての事象は法則をもつ。数字であらわされる世界経済、何十億人もが参加し、世界に広がるネットワーク、それは自然の有機体、わたしの仮説、株式市場にも法則がある。眼の前を流れる数字の影に、ムカシも今も。」(作中より)

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◆アンダーグラウンドな感性
ドストエフスキーの「地下室の手記」やカフカの小説群、サルトルの「嘔吐」やジュネ、実存主義、もう少し時代を近づけていうと、アンディ・ウォーホルにヴェルヴェットアンダーグラウンドゴダールPUNK、フィリップ K ディック、ウィリアム・ギブスン、あるいはガタリ=ドゥルーズ―などは知的アンダーグラウンドの物語だったが、これもまた地下にうごめく知性の物語。地下的な感性というものは、都市的で、地上で許されないものへの接近、アンチヒューマニズム、痛みと秘密めいた快楽、既存価値への反逆、秘密結社、機械、快楽器官の分解としてのSM、有機物と無機物の超越と合体、アンドロイド化、ドラッグ―といったエレメントを含む小集団からなる「冒険」(JP・サルトル)、「実験」(ガタリ=ドゥルーズ)の精神で結ばれた共同体だろう。この映画で描かれるのは、反逆する陽気な小集団ではなくて、最小単位のユニットとしての師弟であり、この師弟間の相克が中心に据えられ、頭の痛みと数学的野心がその戦いの舞台となっている。知的でありながら肉体的、キャッチコピーによれば、「デヴィット リンチとキューブリックが出会った」かのような怪奇幻想と知性の混在。あるいは肉と知性神秘主義のマーブリング。
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◆物語
幼い頃母に太陽を見るなといわれたが、6歳の時見てしまった結果何かがかわり、頭痛とともに天才的頭脳をもち、株式市場の法則を解き明かそうとする主人公マックスは市場レポータードーソンからの誘惑も意に介さずに、生きている。カフェで知り合ったユダヤ人レニーマイヤーの饒舌に引き込まれ、ユダヤ教の秘密結社に誘われる。家に帰って頭痛が始まり、薬を飲み、皮下注射するマックスだが、茫然自失して、鼻から血を流してしまう。数学の師でΠ(パイ)の法則にせまりながらも、それを放棄してしまったソルと碁をたしなみながら、Πについての会話。「Πは法則ではなかった」とするソルに対して、マックスは「法則はある」とあくまで追求の姿勢を示す。カフェでレニーと会い、古代ユダヤ、モーセ五書のヘブライ語の数学性について諭され、13世紀のイタリアの数学者フィボナッチの「黄金らせん」の話をするマックス。家に帰り、生き物のように有機的なコンピューターのプログラムをRUNさせようとすると、機械のうしろから女の欲情した喘ぎ声がきこえてくる。コンピューターは不具合からRUNせず、直そうとするとチップ部分に蟻がはっている。教師ソルに失敗を報告すると、アルキメデスを引き合いに休息の必要性を説かれる。レポータードーソンから逃げるマックスはレニーの手引きでユダヤ神秘主義秘密結社の儀式につれてゆかれ、そこで「モーセ五書に隠された法則」が216桁であったことをきかされる。教師ソルと「216桁」をめぐる議論。主張は平行線をたどり、マックスの神秘主義的な傾向にソルは「数学者ではなく、数占いだ」と言い放つ。ドーソンの最新コンピューターチップ「ミング メカ チップ」を手札とした誘惑を退け、「脳」の幻覚に苦しむマックスは海で貝がらの中に「螺旋」を見出す。

「新たな仮説、われわれが「螺旋」から創られたとしたら、我々が従事すること全て「螺旋」で満たされている」

ドーソンと取引をして、最新チップを手に入れたマックスは、チップを取り付け、プログラムをRUNさせるが、またもや失敗、錯乱して、頭に電気ショックを射つ。騒ぎとなってかけつけた大家に、コンピューターによる部屋の改造をとがめられ、「出て行け!」といわれ、逆上して大家らを追い出すマックスは頭をSKINHEADにし、自分の頭に「聖痕」を発見、データーを眺め、「何か」を理解する。市場レポータードーソンとチップの取引の際渡した情報が全てではなく、一部だったことから、ドーソンと男たちに追われるマックスは追い詰められられたところをユダヤ人レニーに助けられ、レニーにも数字の法則を欲しがられる。秘密結社の施設へ連行され、ユダヤ教の司祭の男があらわれ、古代ユダヤ教のいいつたえを話し、「神の御世に近づき、エデンの園に近づく」ための、暗号がマックスの頭の中にあるという。マックスは「神は謎をとく使命は自分にある」と主張して、その場を切り抜けると、教師ソルの部屋へ。ソルは心臓発作を起こして部屋にはおらず、数字のメモだけが残されている。発作がはじまり、苦しみ錯乱するマックスは自らの頭脳であるコンピューターを自己破壊、数字のメモを焼いて、「聖痕」に電動ドリルをぶちこみ、みずからの能力を自壊させる。数字のことがなにもわからなくなって、映画は終わる。
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◆相克の舞台
この映画はさまざまな相克が織り込まれていて、映画を豊饒な無国籍性へと導いている。この豊饒な無国籍性こそがアメリカの尽きることのない活力であり、NYの秘められた力なのだろう。碁を嗜む教師ソルは東洋的な哲学を背景とした世界観をもち、世界は法則ではないことを説くのにたいして、ユダヤ教的神秘主義に入れ込み、中世ヨーロッパの天才に親近感を覚えるマックスは「法則はある」、と主張する。隣に住んでいる女性はインド系の美女で、市場レポータードーソンは黒人女性だ。郊外白人のWASP的エリートの系譜が紡ぎだす数学の夢ではなくて、人種的なものが入り交じり混淆した、STREETレベルの夢。マックスはストリートを生きる天才として、その過酷な利益の取り合いと苦痛に対する薬物注射に身を呈することとなる。(この傾向は次の作品「レクイエム フォー ザ ドリーム」でもひきつづく)
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◆宗教と知性
知の世界は男性原理的なものが強い。
鉄壁の構築は直線とチップと言語によってなされ、そうして秘密結社によって強化されるといわんばかりのこの映画は宗教と知性という一見相反するものを繋いでみせる。だけれども、錬金術でもラカン主義でもフロイト主義でも、三島主義でも、あるいは般若心経主義でもそうだが、知の奥義といわれる領域にはどこかしら宗教的な匂いがするものではないだろうか?知と宗教の相関関係に踏み込んで見せたこの映画はその意味で興味ぶかかった。そもそも彼は「太陽」をみることによって、突然変異的に「なにか」が変わってしまい、脳味噌のイマージュに苦しめられ、頭に「聖痕」を持つ男なのである。

天才は神の畸形的降臨なのだろうか?

◆テクノな映像感覚
本来ならば重くなるにちがいない知的テーゼを扱いながらも、この映画が現代的に見られるのは、慌しくスピーディーでウィリアムクライン的グラフィックなカメラワークとアンダーグラウンドなテクノサウンドにあるのだと思う。音楽と映像がCOOLなので、頭を蹴り飛ばされるような刺激的で鮮烈な映像体験として、映画それ自体を楽しめる。「MATRIX」と近いテーゼを扱っているのだろうけれども、こちらの方が万人受けするエンターテイメント性が低く、純粋に「知的な夢」の映画として楽しめる印象。
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◆「知」への情熱、「知」それ自体への熱い渇望のようなもの、「知」の終わることのない夢
「知」が「らせん」と(あるいは有機的な欲情の声をあげるコンピューターと)結びつき、幻覚やドラッグを媒介にすることによって、知と肉の二元論を超えてやろうという灼熱に燃える潜在的熱望がマックスにはある。つまり無機的なものと有機的なものを「飛び超える」ということ。それは必然的に人間が神の領域に足を踏み入れることなのだろう。

テクノロジーと知によって神に近づく人間。

生物という長いプログラミングシステムを人間が組み替えてプログラミングし直してしまうこと。自然の統治。そういった一切を「法則」として解き明かしたいと願うマックス。しかし教師ソルはそうは考えない。彼は碁を打ちながら、日本人(というよりは中国人ではないかと思うのだけれども―)が考えていたことを参照する。

「日本人は碁盤を宇宙の縮図に見立てた。一見単純で整然としているようだが、勝負のカタチは無限上に存在する。雪の結晶のように一つとして同じ形はない。一見単純な碁盤は実は非常に複雑で混沌とした宇宙世界を表現しているのだ。我々の世界もまた同じことだ。数学のようにはいかんよ。単純な法則などない」

これに対してマックスは反発する。

「碁の全ての勝負の根底をなす法則がかならずあります。」

経済市場原理でも、生物そのものでもそうだが、そこに法則はあるのか?あるいはないのだろうか?教師ソルとマックスは争い、そうして答えは明かされないままに映画はおわる。
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シュールでソリッドでスタイリッシュな数学的神秘主義ムービー☆
by tomozumi0032 | 2007-05-15 19:12 | 映画評論
 ピンク映画だけれども、「政治と性」という二つの男性的生物学上下構造を刺激する映画。ちょっとマンガ的なウェットさが、言葉に突き放されることに馴れている自分にとっては鼻についた感じだったけど、 まぁ いろいろあるでしょう―☆
 ちなみに―マーティンスコセッシ監督にビデオ送ってくれといわれたそうである。

 えっと本題―☆

◆物語
 イメクラで働いていて、誰とでもHをしちゃう風俗嬢さちこが北朝鮮のスパイの抗争にまきこまれ、金属の筒にはいった<ブッシュの指>を偶然手に入れる。その時頭に銃弾を打ち込まれたことから、さちこは一転、第三の眼というような銃痕の眼と「天才的頭脳」を身につけ、「人類の叡智」に目覚め、バルトやチョムスキーやソンタグを読み、ある本の著者の教授とSEXして、インテリ話で意気投合。家に住み込み、その息子の家庭教師になる。ある日<ブッシュの指>が意志をもち、指にイカされて、ブッシュの「ECOな戦争」メッセージがTVから伝えられる。そんな中、不信に思った妻が探偵に相談すると、その探偵は彼女を撃った北朝鮮スパイで、その妻はレイプされる。スパイは家で教授を射殺し、さちこも殺そうとするが、<ブッシュの指>の秘密を教えるかわりに、命を保留される。さちこは額の銃痕に指を突っ込むと、導かれるように、地下の洞窟へ。そこで「ゼウス エクス マキーナ(機械じかけの神)」=「大陸間弾道ミサイルの遠隔発射装置」を発見。さちことスパイのSEXの後、いきなりあらわれた追手に迫られて、遠隔発射装置を起動させる。スパイの男はさちこを気絶させて、追手との銃撃戦で討ち死。さちこは<ブッシュの指>を装置に差込み、世界は爆破される。

◆イメクラ化する政治と性―
 「政治」と「性」。「男性的なミサイル」という外国性と「女性の肉体」という現代日本性の、男性原理的解釈のような映画だと思うんだけれども、最初のイメクラのシーンからして、いかにもトリッキーなシュミレーションといった感じがする。
 そのイメクラのシーンでさちこは女性教師役を演じ、出来のわるい生徒の男に勉強を教える。ここで問われるのは「アメリカの首都の問題」で、ラジオからはアメリカの放送がされいて、どうもここでこの「さちこ」にあてつけられている含意として、「イメクラ嬢としての日本」なのではないかしらん、と思った。さらに、イメクラではSEXが禁止されているにもかかわらず、男とはSEXし、精液を普通以上に垂れ流すこの男にむかって、さちこは「大丈夫ですよ お店にはいいつけないから、またきてね」という。だから―ここでの関係は店を媒介としていないという意味で密室的なものであって、お店という第三者的な中立性にしたがわない個人的なものの示唆であり、お店を「国連機関」、出来のわるい男を「アメリカ」、イメクラ嬢を「日本」と政治的に言葉を置き換えてみると、監督の潜在的意図がわかるようには思う。ピンク化した日本、イメクラ風俗嬢の日本、そしてヤンチャで出来のわるい生徒としてのアメリカとの個人的な関係。そんな戯画の構図がこの映画をずっと支配しているような印象。たしかにそういった戯画としての視点がこの映画をただのピンク映画には終わらせない映画にしているのではないだろうか。

◆三つ目が通るとヴィデオドローム
 くわえてこれは「おばか」が第三の眼がひらくことによって「天才化」するという意味で「三つ目が通る」的、それからクローネンバーグの「ヴィデオドローム」からの影響を感じさせるシーンが多く、「SEX産業」、「肉体の損壊」や「ヴィデオ的な映像」が差し挟まれるところなどは、クローネンバーグ的だと思った。

◆欠点
 ―とはいえ、欠点も多い映画だ。
まず主演女優の選択がミスチョイスだったように思う。あそこまで肉感的な子ではなくて、もう少し知的なものを喚起させる女優だとしたら、もう少し説得力があったように思う。知性にまつわる多くの言葉にもかかわらず、どこかしら、知性そのものが輪郭をはっきりさせないのは、この格闘家でアダルトヴィデオ女優の女子の存在のミスチョイスであり、欧米ではそういったものが留保されるものかもしれないけど、日本人としては、いまひとつ説得力に欠けてしまう。
―それからSEX描写の不必要な多さで、もう少しポイントを抑えて、描写を挿入すれば、バランス配分の比率がよかったように見えた。
 そしてなによりアメリカとブッシュを描きながらも、どうして小泉に対する言及がないのだろうかというのは今ひとつ腑におちない。SEX描写を削って、小泉とブッシュの戯画を加えたら、さらに性的ではなく政治的な「混沌」が描かれてよかったようには思われた。

 知性のパロディという意味では面白かったけれども、その「客観性」と「抑制」が欠如したところ、が残念かな☆

 女の子には楽しめないだろうけれども、男の子には楽しめるってことで、男の子向きな一本。
by tomozumi0032 | 2007-01-21 18:52 | 映画評論

CQ

★「これで終わり?それとも始まり?でもナニの?」
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◆全体の印象
軽快で馬鹿馬鹿しくってファッショナブルな「パリのアメリカ人」の映画―この映画では虚構と現実、模造品と人間、過去と現在、愛する二人の女性、映画を撮ることと撮らざること、革命と非革命の対立項が交錯し、混淆しており、その狭間の自我の優れて正直な独白(ドキュメンタリー)となっている。等身大の、気負わず、背伸びしない、POPな若者風景として楽しめ、尚優れて知的な映画だと思う。
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◆物語解説
まず自分自身の自己紹介から始まる。
1969 9.1、朝9時30分。僕にかんする断片、僕に関する事柄―
主人公はガールフレンドのマルレーヌと同棲生活をしながら、「ドラゴンフライ」という美人スパイが活躍するSF映画の編集の仕事をし、同時に私的ドキュメンタリーフィルムをつくっている。「ドラゴンフライ」の監督は「革命」をテーマの映画(謎の若い革命集団が月の裏に秘密基地をつくっている、指導者の名前はミスターE(ゲバラ風の男)、信奉者たちは彼を偉大な詩人、演説家、発明家、武道の達人としてあがめている。彼らは無政府主義にの危険思想を広める計画を練っている)を撮っているが、プロデューサーの反応が悪く、喧嘩になってしまい、監督を降板。新しく作り直すことが求められる。撮影現場で主人公は美人スパイ「ドラゴンフライ」に扮する女優ヴァレンティーナと出会い、淡い恋心を抱くが、スタイリストのフェリックスと食事にさらわれてしまい、さらには連日連夜の映画への情熱からマルレーヌへの愛を疑われてしまう。一方映画はスタイリストのフェリックスが監督を務めることになるが、フェリックスはガールフレンドとパーティーへ行く途中で交通事故に―結局代役を務めることとなる主人公は映画の編集中に妨害にあっていることに気付く。フィルムの第七巻目が切り取られており、箱の中に「愚か者」の暗号が・・・。さらに追い討ちをかけるように帰宅すると、マルレーヌは泣いており、別れが示唆される。主人公はプロデューサーの待つローマへと旅立つこととなり、そこでアイディアを煮詰め、夜遊ぶ。パリの自分の部屋に戻ると、マルレーヌの荷物はなく、彼女は出て行ってしまっている。彼は落ち込むが、映画制作に没頭するようになる。そんなある日撮影中に何ものかにフィルムが盗まれる。主人公とヴァレンティーナは撮影用のスポーツカーで追跡し、車から逃げた男をおって、走る。追い詰めた犯人は以前映画をとっていた監督で議論の末フィルムを取り返す。その際監督から映画が「革命を信じたもの」であることが告げられる。結局作り直すことになった映画の結末で、「革命を信じる」メッセージが導入されて完成し、同時進行で進められていたマレリーナとの私的ドキュメンタリーも完成し、上映されることになる。
最後のセリフ。

「これで終わり?それとも始まり?でもナ二の?」
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◆トリッキーな現実構造
この映画の特徴はトリッキーな現実構造である。まず主人公はSFスパイ映画という大きなフィクションの物語と同時進行で私的ドキュメンタリーを制作している。そして仕事としてのSFスパイ映画とプライベートとしての私的ドキュメンタリーの二つが相互に補完しあって、完全なる現実のシュミラクラを実現する。つまり「形容矛盾」した言い方でいえば、これは「現実ではないところの現実」であり、したがって「虚構でないところの虚構」なのである。ということは、これは現実というものがないということを強調することによって、現実そのものを宙吊りにしてみせるという潜在意志を秘め、全てがあからさまに映像化される世界の透明な不在性というもの逆説的に明示しているように見える。なにもかもが透明で不在であるということ。そして透明で不在であるということは終わりもなければ、始まりもなく、意味もないのだということを、最後のセリフが示唆しているのではないだろうか。主人公の元の仕事が編集であることは暗示的である。というのもこれは現実認識をめぐる編集感覚の映画であって、現実というものが編集としてしかあらわれない位相を、日常感覚に連結してみせたからである。セリフが暗示する無限の循環感覚は例えば2000年に五月革命的なものを召還させてみせたレトロフューチャー感覚にも明らかだろうし、あるいは革命などというものがありえないものであることを知りながら、あえて革命を物語る確信犯的擬態にも明らかだ。接木された現実のオルタナティブな可能性として説話はPOPな夢として、現実を揺るがさない位置である意味端正にプロダクトされており、現実は透明の不在さに沈められている。(それにしてもなんという現実的革命の不可能さと若者文化の「衰退」だろう!そしてクープランド的ベットタウン感性の圧倒的勝利だろう!ちょっとむかつく、ほどだ)現実は痩せ細ったものですらない。それは徹底的な透明化なのだ。そしてその透明化が無限循環の鏡状迷宮であることを映画は告げている。
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◆同世代感覚
もう少し砕けた言い方で、同世代感覚で見てみれば、この映画は世界規模での同世代感覚(レトロフューチャー、60‘S回帰)をセンスよく纏めたものだといえる。スタートレックや007、女スパイものといった幼児期の記憶がREMIXされて、「おっしゃれ~!」に編集されている。それからいわゆる大文字の「映画」というよりは映画への情熱、映画自体を解体し違った角度から再構築して見せた話として、「ラヴ・・・」と思った。
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◆「ラヴ・・・」
あ いや すきですよ(笑)ほんとは、かなり―知的でファッショナブルで女の子が綺麗にとれててハッピーでラヴリー、ジャストなかんじっ☆「ラヴ・・・」
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★「これで終わり?それとも始まり?でもナニの?」
by tomozumi0032 | 2006-05-23 22:12 | 映画評論
ヒトラー ~最期の12日間~ スペシャル・エディション
/ 日活


 まずヒトラーについて。こちらを参照してみてください。

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 結局何故ヒトラーは<悪>かといえば、日本のA級戦犯同様に「戦争に負けた」からだろう。「戦争」というのはするからには、勝つことが至上命題であって、負けた時点で「悪の烙印」を捺され、徹底糾弾されるのものなのである。だから、いま、今日的視座設定から「恐怖」といわれ、「恐ろしいもの」と見えるものは、その当時の、むしろ「希望」だったと見るのが妥当だろう。ナチズムの情報操作が「恐ろしく見える」のは、それが「恐ろしく見える言語構築によって、設定された視座」だからであり、広義の意味でのアメリカンヘゲモニー支配下においてだからだとは考えられないだろうか。
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 この映画への不満はそういったアメリカンヘゲモニーに於ける意見の転写でしかなく、逸脱するものの少ないところにある。ヒトラーはあくまで衰退し、滅ぶもの―そして第三帝国首脳部は滅びの前の「愛の嵐」的頽廃と狂気に興じるものとしてしか描かれておらず、「夢」というのが不足なのだ。だから「夢」を見る風景がないままに、「夢」の終わりが呈示される重苦しさは全編を通底するトーンとなっている。
 それから映画を見る前に抱いていた以下の問いになんら答えうるものでなかったところも残念なところ。その問いとはつまり、あの大戦は彼が望んだものか、否か。彼の意志というものは本当にありえたのか、否か。それは時代構造上の不可視の要請、外部要請として、暗黙裡の言語を形成してはいなかったのだろうか。個性と弁舌の妙、昂揚とカリスマの裏のそういった問いにあまりこの映画は答えてくれない。
 さらにいえば、これは人物論としては不出来だと思う。たしかに主演の俳優はよく研究しただろうし、彼を彷彿とさせるのだが、にもかかわらず、ある時間的な限定の、閉域での、若い女性秘書の視座という第三者的な視座からしか描かれてはいないのである。その意味でステレオタイプな会話の一つの潤滑油にはなるだろうが、あまり発見がある映画だとは思えないし、むしろ不満が残るものだ。
 ヒトラーという男を、独裁者を人物の問題に還元してみると、ひとりの人物というものは、大衆の潜在願望の具体化であり、その突然変異的なものだろうから、いずれにせよ、この男の主体というものは、ある種の時代的イコン、大衆の夢見た「夢」の凝縮形であって、だからこそ、ある種の忌まわしさをもって封じ込められている名というのは、それ個人の営為総体というよりは、おそらくはその時代に「夢」見た大衆願望の結節点なのであり、封じ込められているものはその「個人の名」ではなくて、その「個人の名」の上に折り畳まれた大衆願望なのである。
 最後に、結節点としてのヒトラーは方向を司る係員であり、複雑に錯綜したその時代の諸回路を、自らの意志の俎上で連結させた―それはテクノロジーと国家意識、大衆の人心操作と民族意識の昂揚、殺戮兵器(兵器は全て殺戮するものだが)、非人道的アウシュヴィッツ虐殺装置(アメリカがイランで行っていることも、それほど人道的だとは思えないが)を結び合わせ、方向づけたのだろうが、果たしてこれは人間が裁き得るものなのだろうか、という問いは消えない。つまり彼は絶対悪というものであるのか。ヨーロッパにおいて十字軍は英雄だが、アラブにおいては残虐な悪魔であり、物事の善悪というものはそう簡単に決めうるものなのだろうか。

 映画を見終わって、そんな問いばかりが頭を巡り、どうにもあまりいい気分ではなかった。
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by tomozumi0032 | 2006-04-25 18:24 | 映画評論
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