カテゴリ:オリバー・ストーン( 1 )

ナチュラル・ボーン・キラーズ 特別版
1994年 米
監督/オリバー・ストーン
出演/ウッディ・ハレルソン
ジュリエット・ルイス


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★これは言語化するのが難しい映画だと思う。
というのは表現様式が非常に個性的でフラグメントに分裂しており、ひとつの方向からの解釈がはたして成立するのか、考えてしまう。
簡単に印象を言葉にしてみれば―

★過去の映画のシーンの高速なカットアップ。パティスミスの曲、高速で入り混じるダブルイメージ、白黒とカラーの混在、サイケデリックコンサートのような画面処理、コマーシャルと反逆、日本のテクノロジーと日本の女性はアメリカのステロタイプなイメージなのだろうか、MTV感覚、アニメ、バロウズ的カットアップであり物語構造にそれほど依拠しないイメージ群の滅裂なコラージュはDJちっくで感覚的。テクノロジー化された視界。
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★動物、ファッション、インディアン、砂漠、広大な大地、編集の巧みさ、様々な時代の様々な様式としての映像言語、感覚としてはちょっとピンチョンか、バロウズの文学に近いが、なによりヴィジュアルイメージがコンテンポラリーアートのようである。差し挟まれる分裂的なイメージ群、ホログラフ投射されるメッセージ、 キッチュでカラフルなウルトラPOP、ストリートのアメリカ、アメリカ的獣性の征服のイデオローグのどぎつい反射鏡であり、皮肉のように感じた。

★「殺すことが愛である」というロジックのすり替えは、カウンターカルチャー以後のアメリカの価値混迷故だろう。 あるいは画面に差し挟まれる「昆虫」や「動物」の営みは生物の弱肉強食の戯画なのだろうか。そのテーゼは今更繰り返すにしてはやや古いようにも思うのだが、アーチスティックな感覚の戯れとこれでもかと籠められたコマーシャルのカットアップに眩惑する。 オリバーストーンがベトナムを体験したのか、定かではないが、物語の背後にあるのはベトナムのイデオローグの市民社会との離反と挑戦ではないか。
つまり―ベトナムとカウンターカルチャーという60年代的なものが色濃く窺えないだろうか?

★ またこの映画を内的慾動から撮るに至ったのであろうオリバーストーンは、逆説的なアメリカの苦悩そのものを体現しているように感じた。 「世界の中心で愛をさけんだけもの」は大量殺人時代の暴力へのSF的な考察に満ちていたが、これはそのファッショナブルなパロディで、その意味で「時計仕掛けのオレンジ」でのキューブリックの試みに接近している。 90年代のボニークライドであり、低脳なマスコミがその存在を増幅させている。

★彼らは逆説のヒーロー、ロックスターだ。エンディングテーマがこの映画の思想を代弁しているように思った。
長いので、部分的だけれども、以下引用―
 
 未来が見えたぜ 地獄だ
 全てが入り乱れる。
 確かなものはなにもない。
 世界は大吹雪に覆われ
 人の心も支離滅裂
 悔い改めよとは
 どういう意味だ
 古い西欧の掟は崩れ
 私生活は突如ぶっとぶ
 亡霊があらわれ
 路上を火が舞い
 白人は踊りまくる
 次の胎児も殺そう
 どうせ子供は好きじゃない
 未来がみえたぜ
 地獄だ


★こういったカウンターものにつきものの、「父殺し」という主題がなく、そういった攻撃の矛先がマスコミに向けられ、マスコミの中で演じられる戯画めくのもこの映画の特徴だろうか。逆にいえばその辺りがこの映画の政治性のなさと分裂した衝動としても読まれる。

★個人的には嘘でもいいので、対抗するものとしての父がもう少し大きく強力にあったほうが面白く思うのだがいかがだろうか?
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