カテゴリ:ジャン リュック ゴダール( 5 )

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☆パリというひとつの知性
ゴダールの映画はふつうの映画とは違ったつくられ方をしています。

本からの引用、映像からの引用が多くつかわれています。
映画というよりは映画の映画といった構造をあからさまにすることもあります。(たとえば、映画「軽蔑」)アメリカ映画の批判から、映画をつくりはじめたということもあって、映画はいちど料理されて、彼風にもういちど料理しなおしたかのようです。その料理はいま世の中で映画といわれている料理とはちがった味がします。べつのたとえをつかってみると、たとえばファッションの世界で「パリ」という街のモードがモードの批判をたくみに繰りひろげてみせるものとおなじものがゴダールの中にあるように思います。パリモードにはモードそのものというよりは解体と批判をおりこんだ再解釈といった知性があります。それは、具体的には「問いかけること」という風に表現されます。ミラノやロンドン、ニューヨークやバルセロナや東京にはない―というか、ここまで強く表現さません。

ただ着飾ればそれでいいのだろうか?

魅力とはひとつのものではないのではないのだろうか?

服を着るという行為、服をつくるという営為はなんなのだろうか?

もしかすると、ココ・シャネルという金持ちに粗末な布を着させ、それが流行だと断じた守護霊がうしろで見守っているからかもしれません。そんなフランスのあるエスプリ、ある精神がゴダールにはあって、それがとても魅力的なのです。つまり―アメリカ映画のように、金やスターや力やSFXや歴史に負うことなく、軽やかで愉快で知的な面白さ。都市というリフレクションの解釈の面白さ。

そして、ゴダールが一連の作品での問いた問いはこんな感じのことではないでしょうか。

ただ撮ればそれでいいのだろうか?

魅力はひとつのものではないのではないだろうか?

映画を見るという行為、映画を撮るという営為はなんなのだろうか?
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☆あんがい、明るくて、愉快で、軽やかでファッショナブル、ラテンなゴダール
むずかしい―といわれるけれども、そればかりというわけでもなくて、明るくて、愉快で、軽やかで、ファッショナブル、なことは初期の作品群をみればわかるのではないでしょうか。コメディや喜劇が背景にあって、ラテンならではの楽しさが表現されています。

生を楽しみ、芸術を愛し、言葉とともに生き、愛をよろこぶラテンの血が背景に色濃く流れており、作品の前提となっているように思います。
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☆「女以上に女」「男以上に男」の中性的なゴダール
一般にゴダールの作品群は前期、中期、後期と分類されています。

すこし難しくなりますが、かみくだいていえば―前期ほど肉体のレベル、からだのレベルが強く、商業的で、女性的でした。中期は政治がその中心にきて、アジテーションの色合いを帯び、表現的には先鋭化し、言葉の領域にふけり、商業を否定し、その表現形式そのものが男性化します。後期はその総まとめで、哲学的で抽象的で純粋、中性的な「エクリチュールの領域」へ向かっているかのようです。メタレベルで、映像や言葉の思弁言語を抽出しようとする試みは映画の可能性の最前線を切り開くものとされます。

個人的には前期がもうすこし再評価されてもいいんじゃないかなぁ~と思います。

なぜって―いえば、映画はあまり高度で抽象的な思弁性にとらわれずに、「女であること」の領域にいたほうがよい場合もあるからです。映画であることの可能性は「男であること」の方向にもありますが、「女であること」にだって、立派にあるのではないでしょうか。これは言葉にもいえます。言葉も具体性を欠き、現実的対象から遠ざかることによって、別の自由な領域を切り開くことができるからです。もちろん、これはひとつの自由であって、なかなか到達できるものではありませんから、社会的に評価されるでしょうけれども、それのみの純粋性に囚われた映画というのは見ていて眠たくなってしまうことも事実なのです。「男であること」は価値ですし、わたしたちを奮い立たせる理念として、掲げられることもありますが、現在という地点から眺めると、それはひとつの時代的な囚われの状態のようにも見えてしまいます。

とはいえ―ゴダールの凄さはあります。
ゴダールの凄さは「女以上に女であること」を表現し、「男以上に男であること」を表現してみせたところにあると思います。初期の作品群で「女以上に女であること」を描きました。女そのものをよく眺めた人だと思います。そして中期の作品群では「男以上に男であること」を描き、後期でそのまとめをしてみたと見ることもできないでしょうか?

そういったある意味での「男性」にも「女性」にも属さない、どちらへもゆき、それになることができるという彼の資質が作家プルーストのような中性感覚をたたえています。
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☆「分裂症」な感性
ウィリアムバロウズというジャンキーの作家がいます。
彼は分裂症の作家で、「ぱぁ~ん!」と飛び散り、その飛び散りがまばゆいハレーションのように美しい作品群を残しましたが、ゴダールにもこういった分裂感覚があって、カラフルで「ぱぁ~ん!」と飛び散っています。テーマも表現方法もかなり多岐にわたっており、そんなところが現代的なのかもしれません。そして個人的にはウィリアムバロウズと哲学者ドゥルーズ=ガタリとゴダール(あるいはヴェンダース)のあいだには「分裂症」という意味での資質的、時代的共通項があるように考えています。哲学者ドゥルーズ=ガタリが教養ゆたかに説いてみせたように、情報産業の発達による高度情報社会の感性というものは、それが統合することがむずかしいものとなりつつあるという意味で「分裂的」なものなのではないでしょうか?彼らのテーゼをまとめてみますと、とりとめもなく分裂し、あちらこちらに転移し、即時的にあらわれ、遊牧し、さまよい、消滅してみせることこそ「来るべき地球人」なのです。
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☆ゴダールの発言
「この映画は道徳はといていない。道徳は上流階級がつくったものだ」                 
                     
「わたしがつくらなければならないのは美しいアートや美しい作品ではない。実際にわたしたちがしてきたことやこれから向かう先を描きたかった。それがこの映画のおおきなテーマなんだ」
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☆おしゃれな政治アジテーション映画(「シネマルキシズム」)
いま、この映画を見返してみると、当時のファッションが「JUST 今(!)-つかロック=ボヘミアン(笑)」であることがわかります。ベーシストのビルワイマンは男なのに、ピンク一色ですし、ヴォーカルのミックは着丈の長い東洋風のワイシャツをきています。ピーコックでスインギン ロンドンな時代からヒッピーへとうつりかわった時代の移行期だったようで、その絶妙なブレンド感覚が眼にたのしい。さらに強いメッセージは、おそらく80年代のNYに登場したジェニー・ホルツァーやバーバラ・クリューガーなどに代表されるシュミレーションアートのさきがけとしても見られます。

POPでひとびとへの政治的アジテーションにみちたこの映画は社会システムそれじたいへの反逆性もふくめて、おしゃれな政治アジテーション映画だといえると思います。(「シネマルキシズム」)
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☆10の複合プロット―ローリング ストーンズ
映画「ONE PLUS ONE」は10の複合的なプロットから成り立っています。
ブライアンジョーンズがまだ在籍していた頃のローリングストーンズが登場し、本を読む黒人があらわれ、時代の空気を読み、思考し、表現します。プロットにはそれぞれタイトルがふられており、タイトルごとにメッセージが主張されています。プロットに物語はなく、断片的な映像がコラージュされています。
物語のある一本のお話しというよりは、その時代の雑多な人々の声にさえならないような声をあつめたもののように見えます。

それでは、そのプロットを簡略化して、以下に見てみましょう☆

1、ザ ローリング ストーンズ―転がる石
映像―ボリビアからロンドンへにげてきた女―ローリングストーンズの「悪魔を哀れむ歌」のレコーディング風景に重なる朗読―アメリカ批判、トロッツキスト。

代表的なメッセージ―「自己紹介しよう。俺は「金」と「欲望」のもうし子だ。長いあいだ、人間社会をうろついて、魂と信仰を盗み歩いてきた。イエスキリストが疑い苦しんだ時もそばにいた。会えてうれしいよ。オレの名前がわかるかい。お前を惑わすのも俺の仕事のひとつさ」ローリングストーンズ「悪魔を哀れむ歌」

2、黒人小説を超えて―
映像―本を朗読し、銃をくばる黒人―壁にメッセージのペイント―シュミーズ一枚の白人女に銃をむけて、白人女への欲望をうたった詩にあわせて、女のからだを撫でまわす

代表的なメッセージ―「最大の敵は白人なのだ」
「白人は黒人音楽から盗んだ」
「話さないことが抵抗なのだ」

3、SDS―ストーンズ サイト アンド サウンド
ふたたびローリングストーンズの「悪魔を哀れむ歌」のレコーディング風景に重なる朗読―ポルノ小説の朗読。

4、イヴのすべて―LOVE
緑の草原でマスコミのテレビインタヴューをうけるボヘミアン女性イヴ―マスコミは「LSD体験についてどう考えるか?」、「ヴェトナムについてどう考えるか?」、「知的革命家になるには知識人になろうとしないことか?」「オルガズムは性を感じる唯一の瞬間か?」「小説が滅びるときテクノロジー社会が訪れるか?」―などと質問を重ねる。

5、HI―FI フィクション―科学 ONE
ストーンズの演奏風景―車に「MAO―毛沢東―」という字の落書き。吠えるミック・ジャガー。

6、西洋の本心―LSD
本屋で本を朗読する紫のライダースの若い男―道に落書き。
「民族が地球上で自己生存のために闘うなら、つまり生か、死かの問題が国民に近づくならば、ヒューマニティとか、美とかの考えは無に帰してしまう。これらの観念は宙に浮いているのではなくて、人間の幻想から生じたものだ・・・・・・ヒューマニティも美も人間世界から消えるだろう」

7、1+1=2
壁にメッセージを描く女。コスイギンという主人公のポルノの朗読。重ねあわされるストーンズの映像。スローガンを描く男。「シネマルキシズム」

8、黒人の文章構成の内部で
黒人新聞のインタヴューをうける革命家の黒人の思想指導者風男。
共産主義とブラックパワー、マルクスについて。
政治権力の奪取を狙う黒人。
「黒人が世界中で解放されない限り、和解はない」

9、社会の変革―CIA
ふたたびストーンズの演奏風景。

10、石の下の浜辺
浜辺での映画の撮影風景。
ゴダールの心象風景の独白。
「わたしは政治的西部劇に飽きてきた・・・まだ1時間半しかたっていない。わたしは台本をクズかごに捨てた。無駄な戦いだった。わたしは5歳になる。赤軍や革命と同年齢だ。わたしは北京に電報をうった。海岸で毛―毛沢東―おじさんのイエローサブマリンを待つ。あたりをうろついている狂った連中は何ものだ。映画を撮っているのか。すべて時間の無駄だった。混沌から逃れなければ―」
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☆60年代の夢のあとで―
さて、ここで、もう一度上述のゴダールのこの映画に対する言葉を引用してみましょう。
1968年の時点でゴダールはこんな風にいっています。

「わたしがつくらなければならないのは美しいアートや美しい作品ではない。実際にわたしたちがしてきたことや「これから向かう先」を描きたかった。それがこの映画のおおきなテーマなんだ」

はたして現代に生きるわたしたちはこの映画でゴダールが描いてみせた「これから向かう先」をどのくらい実感できるような社会や感性の状況の中にいるのでしょうか?現代に生きるわたしたちはこの映画に対して、それが失敗であったり、あまり上手くゆかなかったことも知っています。ストーンズの描いた「悪魔」と「フラワー」のカウンターの夢は、ブライアンジョーンズの死と、この映画の翌年の1969年におこった黒人の殺害事件、「オルタモントの悲劇」によって締めくくられます。60年代の進歩的考え方の理想は脆くも崩れ去り、巨大化した資本の中にやがて呑み込まれてゆきます。当時、ゴダールに商業映画と決別するほどの衝撃を与えた「MAO」こと、毛沢東による中国の文化大革命は現代から見返すと、スターリニズム的な色彩の強い伝統破壊運動のように見えますし、いくら中国が歴史的なものとして正当化しようとも馬鹿げた破壊行為、無益な破壊行為に思われてしまいます。東西ドイツを隔てていたベルリンの壁は崩壊し、日本以上にソ連とアメリカによって手ひどく陵辱され、殴り飛ばされ、引き裂かれ、分裂させられていた国は統一されました。逆に、キューブリックが皮肉っぽく描いていましたが、超大国として、アメリカとの馬鹿げた核の競争と世界戦争へのあやうい駆け引きに明け暮れたソヴィエト連邦は、解体し、分解して、現在ではタンデム(双頭)政権の後ろから目を光らせている院政者ウラジミール・プーチン前大統領の手腕によって小ロシアの経済大国へと邁進していることは周知の通りでしょう。つまり、当時サルトルやゴダールというヨーロッパの知性をも巻き込み、世界が熱狂した大共産主義同盟の夢想―白昼夢―は現代では砕けてしまって、そのカタチを思い返すのも大変なものだといったところでしょうか。現代から見返すと、ナベツネや連合赤軍、学園闘争も含めて、当時の若者が、どうしてあれほどまでに共産主義という社会システム、世界同時革命という考え方に憑かれ、その生涯を賭してまでもその理念のうちに没していったのか、ということが実感としてわかりにくいところがあります。もちろん、二極化構造がすすみ、搾取の構造があからさまになる資本主義という自然発生システムにはない、知的構成のシステムの擁立、夢なきプロレタリアの夢、あるいは革命という夢想―といった側面は概念として整理されて理解することはできますが、個人的に、いまひとつ、それがモード以上の実感としてとらえられていない。社会的な基礎構造、インフラストラクチャーが異なっているので、実感されないのです。にもかかわらず、この時代の若者が孕んでいた熱気、熱病のようなものへと憧れる思いがあるのはどうしてなのでしょうか?

たとえば、現代社会を覆う風俗や空気としての「フォーク」や「だるな感じ」、「貧乏」といったものが表現レベルで根ざしているのは70年代の学園闘争の失敗によっておとずれた「挫折の時代」の転用と置き換えが多いことはわかります。これは「後期高齢者医療制度」によって示された問いである「財政」と「長寿」のアンバランス、「財政」が「長寿」をささえきれないこと、そしてそんなになるまで「殺せない」社会保障制度の自家薬籠中によって、やんわりと、真綿で首をしめられ、自死へといたる社会の空気の若者による表現だと考えられます。戦後、高度経済成長にいたるプロセスの中にあった、若々しい空気、つまり「希望」はいまや「長寿」による人口比率のバランスシートの中に消えてゆきます。少子化と介護と老人を背負うこと、制度の重みの中で閉塞感を強め、作家ウィリアムバロウズが極限的に示してみせた局所的な神経回路の「強度」へと訴える「気晴らし」によってしか晴らすことのできなくなった存在、これがスーパーフラットの世界を生きるわたしたちです。逆にいえば、戦争は悲惨だったけれども、おおくの「代謝作用」の役割も果たしてくれました。社会体細胞の活性化、「希望」というものは、こういった制度それ自体が、もはやとらえきれないほどに膨大な情報を生み出し、にない切れないほどの重荷を課すような社会情勢の中ではなく、むしろ、徹底した暴力と不条理の惨劇の後におとずれるものなのではないでしょうか?

「フォーク」や「だるな感じ」、「貧乏」といったものは、あくまで夢のやぶれた「挫折の時代」の転用であって、しかたのない現実の受け入れ、夢見ることの廃棄―をあらわしています。それは現実の否定によるラディカルな昂揚と変革のエネルギーではなくて、現実の受け入れに根ざしており、みじめで小さなではあるけれども、それでも生きてゆこうといういじましい生を表現したものです。したがって、そこにはおおきな「夢」というものはありません。おおきな「夢」は、いまや、砕け散ってしまったように見えます。そこへ巨大化して、だぶついた資本がやってきて、「夢」をちいさく加工して、洗練されたテクノロジーによって快楽的に処理することを教えました。それは、あんがい難しいことではなくて、社会のだれにも迷惑をかけないように、ひとりひとりを孤独に隔離し、それが等身大のあなた自身なのだよ―と耳元でふきこみ、洗脳してしまえばよいのです。(村上 春樹が巧みに描いてみせる個人とはこの個人です)そしてその孤独を資本と結びつけてしまい、あとはイメージとして、お洒落に広告してしまえばよいのです。人は危険を遠ざけ、いじましい生をたがいにまなざすことによって、そのまなざしの中で自分を他人のうちにみつけ、共同体レベルでの安心をもとめ管理されあうものです。そうやって、まなざしの中で、わたしたちはこの巨大な物品生産の機構の中で他者になります。NYの現代美術のアーチスト、バーバラ クリューガーがグラフィカルに消費社会を切り取ったように「YOU ARE NOT YOURESELF」というわけです。あなたはあなた自身ではなく、わたしはわたし自身ではない。機構と機械と資本の圧倒的な勝利―近代自我と考えられてきた領域のめまいがしてしまうような目くらましい失墜。「夢」などつけいるスキも与えない「夢のような多幸症」の世界。幸福と快楽と遊びを表現すること。そしてそこで「動物」になり、「女」になること。社会システムに対してなんら批判などせずに、なんら疑問など持たないこと、アイロニカルな視点は拭い去られ、アイロニーという人間の表情は失われてしまったようです。

そんな意味で、この時代というものにまだかたちをもって持ちえただろう社会に対する批判と皮肉、それから若者が若者であることが本当の意味でできたという熱さ、夢や別の世界へと注がれたまなざし、時代の熱気のようなものは、いま、かえりみると、とても新鮮で羨ましく思われてしまうのです。作家トマス ピンチョンがシュールなユーモアをもって描き出したように、当時のひとびとはそういったことに無邪気に信じ、実験をしました。そういった実験の残滓というべきものは、現代社会のなかでは砕け散り、散乱してしまっているようですが、映画やファッションや音楽といった文化風俗のみならず、ものの考え方やものの意味、価値観などにかなりつよい影響をあたえています。それはこの映画のゴダールがそうであったように、若くて-だからこそ、今という時の整理されたところから見返すと、誤解や思い違いも多くあったのだけれども、それでもなにかけっしてたどり着かないユートピアを夢見たという意味で、モラトリウムで、浅はかなところもあったのだろうけれども、でも、だからこそ、そんな輝きがいとをしくなってしまうような、そんな感じがしました。つまり、ないものねだりかもしれない-という危惧は承知の上で、いいなぁ~、こんな時代に生きたかったなぁ~と思ってしまったわけです。まったく不埒にも・・・☆
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気狂いピエロ

1965/フランス・イタリア
監督/ジャン・リュック・ゴダール
主演/ジャン・ポール・ベルモンド
    アンナ・カリーナ 他
    
「ゴダールは人を行動に誘うというには、たぶんあまりにも革命的なのです。ゴダールは影響をふるう人というよりもむしろ一個の例外として、唯一無二の流星として輝いているのです」エリック ロメール(「カイエ デュ シネマ」90・04号)
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◆1、ゴダールその特有の分りにくさについて☆      
たしかに―ゴダールには分りにくいところがある。
それは時代背景の違いといったこともさることながら、その表現様式がおおむねわたしたちが親しんでいる映画群とは違った方式で描かれているからである。
それでは何ゆえゴダールは分りづらいのか?どうしてゴダールはどこか了解不能なものをその表現の中に盛り込むのだろうか?、それは彼一流の韜晦術なのだろうか?
個人的には、ゴダールの分りにくさのひとつの原因はそれが劇の劇であるところだと思う。例えば、「Made in Usa」(1967)にはそこで描かれる物語が突如としてメタレベルの幼児劇へと転換されてしまうことの眼眩みがあるし、ブライアンジョーンズも登場するローリングストーンズを大きく前面に押し出した「One plus One」(1968)でも同様に幾つかに分類される異なった物語群が恣意的に混在されており、一つの物語解釈という通常わたしたちの慣れ親しんだ解釈の形式から外れてしまうところがある。つまり「通常の作られ方で作られた映画」というよりは「ゴダール独自の言語としての映画」というべきなにかがそこにある。それは一元的な物語構造を拒むもの、物語群をメタレベルへと放擲することによって成立する物語であって、通常の映画の見方から外れてしまう―「逃走」してしまう―なにかだといえると思う。逆に言えば、わたしたちの「映画はこういうものである」といった概念それ自体を揺さぶるなにか、映画とは違う、だがしかしれこれは映画であるといわざるを得ないようななにか。そのなにか故にゴダールは重要なのである。それはハリウッドやアニメに見られる単純な二元論ではない、したがっていわゆる勧善懲悪でもない。そういった二元論的な陥穽には陥らない独自の言語としての映画の可能性だ。そして―それはたぶん状況的飽和から、ウィリアムバロウズが創始し、そしてドゥルーズ椹木コーネリアスやDJ文化に引き継がれた可能性、つまり存立平面でも概念の組み合わせ(REMIX&CUT UP)、なのだと思う。そしてそういった表現スタイルの可能性は、映画のみならず、文学やファッション(昨今のJUNYA WATANABEやCOMME DES GARCONを見ればいい)、そして渋谷系(死語かな?これ、ま いいや)などの音楽にまで影響を及ぼしている非常に影響力の強い一つのオルタナティブなのだ。
―だからゴダールは「わけの分らないが「おしゃれ」な感性的な映画」ではない。
そうではなくて、そういった「おしゃれ」さも含んだ上での高次のゴダール語、表現形態、表現スタイルの創造的映画なのである☆
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◆2、平面であること☆成熟しないこと☆
2-1 平面であること
ゴダールの画面の特徴は奥行きを欠いた平面性であることは、よく指摘されてきた。
たしかにゴダールの画面には深みがないし、今風にいえば「Super Flat」だ。それは例えば「異邦人」においてカミュの文体が平板であったように、中庸で、あいだで、まんなかで、崇高さや壮麗さのかけらもないものだ。これはブレードランナーと丁度対の対称をなしているように思う。ブレードランナーにあるのは、垂直方向の視点移動であって、ああいった高さの視座の感覚といったものは、それに付随するイメージとして、高尚さ、崇高さ、壮麗さといったゴシック的情感とでもいうべきものを喚起させるのに対して、ゴダールの画面は、親しみやすさ、凡庸さ、中産階級的POPさ、日常の地続きのもの、といった情感を喚起させる。確かにそれは映画ではあるが、画然と隔たった壮麗な世界の映画ではなくって、日常の横の、すぐそこにあるもう一つの日常の映画なのである。だから現代東京から見ると、どうしても時空間軸に隔たりがあるように見えてしまうのだけれども、実際当時のパリでは、ゴダールの作品というものは、観客に相当に差し迫った実感をもって見られていたのではないだろうか。例えばゴダールが撮ったSF映画「アルファビル」(1965)などはその典型であって、あれはブレードランナーのように壮麗でカッコいい未来ではなく、どちらかといえばすぐそこにある、日常と地続きの未来だし、「中国女」(1967)に描かれたような毛沢東主義のテロリズムも、現在ではファッション的な記号消費の一つにすぎないものに堕しているが、当時では強いメッセージ性と日常と地続きの革命の感覚を持ちえたのだろう。

またゴダールの特徴として、この画面の平面性において、登場人物が成熟したものとして描かれない。特に初期の作品群に強いように思うが、ゴダールの作品の平面の上で登場人物は、ヒッチコックやホークスのそれのように成熟しないのである。
いや―むしろ
成熟は否定されているように見える。
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2-2 成熟しないこと
前期から中期にかけてのゴダール映画群にある奇妙なPOPさというのは、その平面性もさることながら、登場人物の不思議な軽やかさがあって、これは多くの同時代に撮られた他の監督の名作といわれる映画を今見返すことによって引き起こされる「やはり古いよなぁ・・・」といった感覚とは正反対に、今見返しても決して今の映画に劣ることのない現代感覚があって、それはおそらく「新しい・古い」といった二元論的な次元とは別の次元の領域に位置しているような、奇妙で微妙な感覚をもたらしてくれるのだが、この感覚というのはゴダールが最新作である「アワーミュージック」(2005)にいたるまで引き続いており、ゴダールのゆるぎない個性となっているだろうことは間違いなくって、それではそういった個性というものをなんといったらいいのかしらと考えるとおそらくこれは「成熟しないこと」の現代性だと思うのだが、それではこの「成熟しない」ということはどういうことなのだろうか?そして―それは極めて東洋的かつ日本的な価値基準をふくんだものではないだろうか?つまり―「成熟しないこと」それ自体がなにかしらの意味を持つようなそうした体系としての映画という意味でのゴダールの先見性―平面的で「超越」へとは向かわずに「先取り」を意味するような体系としてのゴダール。「成熟しないこと」とはとどのつまりはこの先見性に関わることではないだろうか?そしてこの意味でゴダールと接近するのが川久保玲の「コムデギャルソン」だ。川久保=ギャルソンが意味する先見性とはすなわち「逃げること」「逃走」=先見性に関わることであって、それは彼らのマニフェストを見れば明らかだろう。「成熟しないことの強さ」という言語的置き換えがそれだ。「成熟しないこと」はおそらく生物学的にいえば、不完全なことであって、生物というものはほっておけば勝手に成熟するものだが、そういった成熟自体の難しいような都市人工環境が明らかにわたしたちの周りには拡がっており、そういった成熟しないことを強さと置き換えるプロパガンダと同時にコムデの機知とも相通ずるものがゴダールにはある。そしてそれが日本の子供礼賛と「接続」されたときに生み出されるものは何か、これぞ、現代のPOP環境なのである。そして国際都市としての「東京」に先見性がもしあるとするならば、この領域なのだと考えたい。

またよくいわれるようなゴダールの難解さとは裏腹にその表現に絵本や漫画、ディズニーやアリスの断片、が登場し、「中国女」などに見られる作中劇は幼稚といっていいものだとおもう。物語の抽象化と作中の表現の幼稚さが交互に描かれる。

難解さと成熟しない幼稚さの不可思議な混淆―
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気狂いピエロ 2へとつ・づ・く・☆    
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気狂いピエロ1はこ・ち・ら☆
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◆3、B級感覚―<浅田彰批判>―パルプ的感性
往々にして疑問なのだが日本の評論家というのはどうしてゴダールの中にA級的なものを見出そうとするのだろう―個人的な意見としては、ゴダールにあるのはA級感覚なものではない。例えば浅田彰はこの意味で本質的なところでゴダールを見誤っている。浅田はいつもそうだが、自らの「優秀」で「シャープ」な感性で、作家を「優秀」で「シャープ」なものとして位置づけたがりすぎる。「優秀」で「シャープ」で一流なもの―この意味で決定的に浅田は前時代的な教養のイコンであって、現代的とはいいがたいところがあるように思う。(その意味で蓮実重彦はそのB級感覚ゆえに、浅田よりもゴダールに親和的なのではないだろうか)例えばバロウズの本質的なところは決してA級感覚にあるわけではなく、あるいはピンチョンの本質的なところは決してA級感覚にあるわけではなく、ドゥルーズの本質的なところは決してA級感覚にあるわけではないように、ゴダールもまたA級感覚ではない。つまりA級なものでも、一流なものではなくって、B級で、二流なものなのだ。これは「勝手にしやがれ」を見れば自明なことのように思う。つまりあれは「B級ハリウッド犯罪映画専門会社モノグラム」に捧げられた映画なのだ―だとすれば、ゴダールの意図するところというのは、ヒッチコックのような「成熟した」「奥行きある」「一流の文法」に対抗するものとしての、「成熟しない」「奥行きのない」「二流の文法」であって、現代でいうところのタランティーノに近いようなパルプ的な感性、というのがぼくの意見だ。ある意味では、感性的なカットアップ&REMIXの出鱈目なツギハギこそがゴダールの真骨頂なのである。逆説的にいえば、浅田は「優秀」で「シャープ」であるが故に決定的にだめなのだということができるのではないだろうか。

繰り返すが、ゴダールはA級なものではないというのがぼくの意見である。それは本質的なB級指向として、タランティーノやピンチョンと地平を同じくするものだ。もちろんそこに折り畳まれる機知の質があり、そういった質の差異といったものはあるし、時代背景としての政治的要素の抱含的差異もあるだろうし、その意味ではゴダールは非常にインテリジェントだ、だが、映画の本質的指向としてはA級に属するものではないのである。そしてそのB級さ感覚は「成熟しない」「奥行きのない」「二流の文法」といったパルプ的感性に明らかであって、この「気狂いピエロ」でもそういった特徴は顕著なのである。
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◆5、すべての男は消耗品である
―と、いうエッセイが村上龍のエッセイであって、「うまいこというなぁ~☆」と思っていたけど、ゴダールの映画を見ていると、「ホントすべての男って消耗品かも~」と思わされてしまうところがある。ジーンセバーグからアンナカリーナ、アンヌ・ヴィアゼムスキーからイザベル ユペール(ああ イザベル!)に至るまで、女の子を撮るのが上手でCUTEでエレガントで、そしていつも―「女性上位☆」まさに女性上位時代の訪れを体現しているようで、ゴダールにでてくる女子に部屋爆破されたり、言葉でなじられたり、侮蔑の視線を冷ややかに投げられたら、60年代のイギーポップのように「DOG」に―なってしまいそうな気も―しなくもない。

◆6、気狂いピエロ
「そうさ ぼくは地中海の水平線に向けた大きな疑問符だ」ピエロ
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まず―簡単に情報をおさえておきましょ☆

6-1、解説
以下―GOO映画解説よりの引用

アメリカの小説家ライオネル・ホワイトの『十一時の悪魔』をもとに「軽蔑」のジャン・リュック・ゴダールが監督した。撮影は「二人の殺し屋」のラウール・クタール、音楽はアントワーヌ・デュアメルが担当。出演は「カトマンズの男」のジャン・ポール・ベルモンド、「スタンダールの恋愛論」のアンナ・カリーナのほかグラジェラ・ガルバーニ、レイモン・ドボスなど。

ちなみにこれは長編映画10作目。

6-2、あらすじ
主人公フェルディナン(J・P・ベルモンド)は妻子ある中年男。イタリアの金持ち妻の実家のエスプレッソパーティーで友人の姪のアンナ(アンナ・カリーナ)に出会い、一夜をともにし、死体を発見すると、逃避行の旅をはじめるが、アンナの複雑な人間関係に巻き込まれ、さらに無一文での逃走を余儀なくされて、南への大陸横断の旅にでる。車を捨て、ドル札を焼き、未来のないことを知りながら逃げる二人。車を乗り換え、愛を深めながら、逃走。海辺に家をみつけ、そこでお互いの裸の自分を語り、心象風景をしるし、小説をかこうとし、うたい、戯れに愛し合う。そこで「勝手にしやがれ」の主人公ミッシェルに似たようなキャラのフェルディナンは美を見つけるが、海辺の生活に退屈したアンナは街へ行きたがる。街へでるとアンナはせむしの小男にとらわれてしまう。フェルナンドは助けに向かうが逆に拉致され、拷問され、自殺しようとするが死に切れない。彼女を探して、トゥーロンの街へゆき、そこでアンナと再会し、身の上を質すことによって、女が何なのかというのを確認しようとするが、結局掴まえることが出来ない。しかも女にはすでに新しい男がいて、組織に属し、暗殺の仕事をしている。哀れなフェルナンドはそれに加わり、金入りカバンを奪う。逃避行は続き、「3時15分のニースよりタヒチ行き」に乗る約束を二人は交わすが、女は裏切り、新しい男と船で島へと向かっている。フェルナンドは島へゆき、二人を銃殺。後にダイナマイトを顔に巻いて自殺する。最後にアルチュール ランボーの詩。

「見つけた 永遠を それは 海 そして太陽」

 ◆7、解釈
逃走の二重さ―夜空に煌く「☆」
個人的な解釈として、これは「女の不可解さに翻弄される男の悲劇の物語」だと考えた。
理由は物語を装飾する色鮮やかな言葉を取り払ってしまって、残るものは女に翻弄され続ける哀れな男フェルナンドと眩暈的で現実的なファムファタルとしての女アンナの営みが全面にクローズアップされているからだ。フェルナンドは全く物語の主導権を握ってはいない。彼はいつも彼女の尻の周りをブンブン飛び回る便所蠅のような男で、時々戯れに詩的なことをいい、金をかせぐための道化を演じてみせるにせよ、男としての主導的な役割は果たしていない。エスプレッソパーティーでアンナと出会って、「逃走を余儀なく」され、浜辺の家で美を見出したにもかかわらず、女の意向によって、「街へつれて行かれ」、「アンナを助けようとしたのに拉致され、拷問され」、約束したのに「裏切られ」、彼女の身の上を質すが「掴まえられず」、挙句の果てには「捨てられ」、逆上して「アンナを殺し」、そしてダイナマイトを巻いて「自爆」する。明らかに解放の旅にもかかわらず抑圧されているのは男であり、女ではない。
したがって、一つの解釈として、この映画は決して掴まえられない女というものの「逃走」のさまを「逃走の劇」の中で二重に描いたものだということが出来るのではないだろうか。
いつも眼の前から逃れていってしまう-けっして捉えられないものを描いたということは、つまり、やや拡大解釈してみれば、生の不可能性の暗喩ということであって、頽廃というべきではない。この映画は掴まえることの決して出来ないものへの飽くなき情念によって、自己消滅へと至るという意味において、映画の映画それ自体への批判となりえている。映画というものはその属性としての「投射」、そして「実在なきシュミラルクル」であり、それはアルチュールランボーが美について明晰に述べたように、それは捉えがたいイマージュでしかないということだろうか?

翻って、女の行動を考えてみよう。
問題は女に勝算はあったのだろうかというそのことであり、行動の動悸として何らかの幸福への意志があったのだろうか。
実際―それは疑わしい。
女はいつも逃げる。
幸福から、組織から、都市から、関係から、過去から、生活から―
といった一切から―

だが―ほんとうは一体何から?
なんでにげつづけなくてはいけないのだろうか?
そして―どこへ向かって?
どこかゆきつくさきがあるのだろうか?

ここで思い出しておきたいのは、この映画の4年のちに撮られた映画「イージーライダー」(1969)だ。この映画はロック・カウンターカルチャーのイコンとして名高いが、最終的に60年代文化の挫折とカウンターカルチャーの終焉と失敗を暗示するものとして、この「気狂いピエロ」同様に、逃走と主人公の突然の死によって終わる。また些か極端な暴力的パロディとして、60年代精神の現代的総括として撮られた「ナチュラルボーンキラー」の原型であり、「ボニーアンドクライド」が逃走劇を繰り広げる「俺たちに明日はない」(1967)もまた同様に逃走と突然の死によって締めくくられるものであって、あるいはカーアクションの傑作であり、ロックバンド、「プライマルスクリーム」がオマージュを捧げた「バニシングポイント」(1971)もまた同様の結末で結ばれる。したがってこの映画に刻印されているこの逃走そのものがある種の解釈を求めてはいると見るのが妥当であって、それはおそらくは60年代後期から70年代初頭にかけて拡がったある時代の空気のフランスローカルな言い換え、映画言語的な表現なのではないだろうか。つまり、ドゥルーズの思想が遅れてきた60年代文化と五月革命以後の社会の空気の言い換えであるように、この映画はある時代精神を言い換えているのであって、この映画の中に封じ込められているものとは、あの時代の―どうしようもなく、高揚した、そして「死」へと向かわざるを得ないような、若者の、強く、熱い、エネルギーに他ならない。
だから―
「にげつづけること」とは権力機構の不断の介入に対する逃走であり、行き着く先はないままに、連合赤軍の「よど号ハイジャック事件」と同様に、むしろ自らの死を保険とした逃走なのだ。そしてここでは逃走は確実な死以外の何ものでもないようなもの、そしてだからこそ比類なく鮮烈な輝きを放つものなのである。生は死に隣接した時にこそ、強く輝くものだ。(ちなみにいえば、現代社会のセックスの氾濫とエクスタシーの追求姿勢というものはこの視座からいえば、平和な社会の中で生を輝かすためにとるべき手段なのである。つまり―日常に死を孕むことによって、輝く生への希求。こんなパラドキシカルな構造から現代人はいまだ逃れてはいない。)

話をもどしてみれば、この映画は当時の若者の行き場のない時代精神の行き詰まり、情熱の行き詰まりを表現したものだ。権力と対権力の不可視の「闘争」が産んだ「逃走」劇、女と嘘の「痘瘡」に覆われた男の哀れな物語―若者は手練手管に富んだ大人に勝てはしなかった―あの時代の思い込みは過渡期的なものだった―そしてその過渡期的なものに散る人生の美しさ、眩く輝く「若さ」とそこはかのない「青臭さ」-「フランス的倦怠」から「逃走」へ、そして「喜び」「生の充実」、「絶望」「愛と愛の儚さ」、あるいは「愛と愛の喪失」、「暴発」「死」―そういった意味でこの映画は60年代の時代精神の結晶なのだ。
そう―そうだ!― 

若さが若さとしてもっともかがくことが出来た時代の、ある意味ではとってもハッピ~な結晶としてこの映画はあるのではないか☆

それだから、この映画の輝きは失われていないし、わたしたちの時代が憧れても到達できない地点で、頭上に閃く綺羅星のように「きらきら」と輝き続けるに違いない☆
いってみれば、「気狂いピエロ」とはわたしたちの見上げる夜空に煌く「☆」なのである。
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勝手にしやがれ




                ☆夭折の美学
この映画を初めて見た時、今ではすっかり氣志團化されてしまって微妙なメッセージだが、氣志團ではなくてシドヴィシャスとヴィヴィアンウェストウッドのそれ(・・・だぞ ほんらいは・・・木更津ぢゃないぞ ロンドンだぞ・・・)を思った。

「Too Fast To Live, Too Young To Die」(速すぎる生、若すぎる死)

思いつくままに名を挙げてみれば、古くはフランスの詩人「ランボー」から「カミュ」、俳優「ジェームスディーン」や「マーロン ブランド」、ロックスター「マーク ボラン」、無頼派文士「太宰」、切腹文士「三島」等々ではないが、「若すぎる死」という特権が若さには敢然とあるものである。そして「若すぎる死」というものはそのたおやかな到達不可能性から神話化され、衝撃と情緒的な反応を引き起こしやすく、その強度故に「もう一つの人生」あるいは「秘められた詩的憧れ」なのではないだろうか。

もちろん「死」は「死」である。

それは暗闇であり、暗黒だ。
輪廻転生するかもしれないけど、とりあえずおしまいなのだ。
が、ファッショナブルな現代文化につつまれての」、「著名な死」となったものはその文化やジェネレーションのイコンとなる。
「ジェームスディーン」しかり
「全共闘の樺美智子」さんしかり
「太宰治」しかり
「三島由紀夫」しかり
「ブルース リー」しかり
「阿部 薫」しかり
「松田優作」しかり
「シドヴィシャス」や数多のロックスターしかり
「HIDE」しかり
「岡田 由紀子」しかり(笑)
そしてこの映画の「泥棒のミシェル」(ジャン ポール ベルモンド)しかり
つまりこの映画とは速すぎる生と若すぎる死を、当時としては圧倒的な「強度」で描いて見せたものとおぼしい。

リアルタイムでこの映画と邂逅した映画評論家蓮實重彦はこの映画との出会いをこんな風に語っている。

「「勝手にしやがれ」に思いがけずに遭遇したときの興奮は、一人の作家の誕生に立ち会う事の喜びというより、一篇の遺作を無造作に放り出して、あっさりと映画と決別していくかのごとき 不遜な魂への、羨望に似たものだったと思う。可能性というより何かの終わりを、饒舌というより言葉の経済学を、未来というよりいまこの一瞬を生きつつあるものの傲慢な微笑というのだろうか、とにかくふと、夭折という言葉のイメージが闇の中に開花したような思いにとらわれたものだ」(「映像の詩学」P436)

「不遜な魂への羨望」-言い得て妙なこの言葉はこの映画やあまたの夭折への潜在的かつ甘やかな憧れ、つまり「秘められた詩的憧れ」を意味していないだろうか。
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とどのつまりはこういうことだ。
人間の生は死を孕んでであるという事を人間というものは案外気が付かないものなのであって、それゆえ生はのっぺりとした反復の中で「生」でもなく「死」でもない領域を漫然とたゆたいがちなものなのである。だからこそ人間には身近な死がなくては、生を生として案外明確な輪郭を以って知覚しえないものなのではないだろうか。仮にもし死がなくなったら、つまり生が永遠に続くとするなら、その時点でそれは生とは呼べないもの、生の逆転した姿、すなわち死になってしまう。宗教の中でなにゆえ死をかくも強調してみせるかといえば、そのような不全が意識構造下においてあるからに他ならない。現代社会における性の氾濫は逆説的なこういった漫然たる生社会(平和呆け社会)「小さな死の氾濫」だろうし、そしてこの資本主義社会の中でもしより引き伸ばされたかたちで、死というものを表現し得る装置があるのだとしたら、それはやはり物語と映画の中なのである。
と、大上段に大見得を切っておいたところで、以下映画の話。

               ☆物語解説
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「つまりおれはアホだ、結局はそうさ アホでなくちゃ」

広告の女のイラストレーションのアップから映画ははじまる。
平面的で漫画的なゴダールらしい画面からツィードJKに帽子をちょこんと乗せた主人公ミッシェル(J・P・ベルモンド)の煙草を吹かすシーンへ。それから唇を撫でる彼の癖が登場する。この癖というのはただの癖に終わらずに、作中ひとつの言語として描かれている。港街で女と過ごしていたらしきミシェルは車を盗み、女を置き去りにしたまま、パリへ向かう。車内で歌うミシェル。

「ラララララ ラララララララ~・・・・・・・・・ミラノ ジェノヴァ ローマ・・・(中略)・・・海がきらいなら、山がきらいなら、都会がきらいなら、勝手にしやがれ!」

車内で拳銃が登場し、けたたましい破裂音が打ち鳴らされ、映画は小気味よく、軽快に展開する。女の運転を批判し、車を追い抜き、やがて警察に追われ、発砲、その警察官の一人を射殺して、車を放置したまま大地を走って逃走する。パリの女の部屋へゆき、その女から金をくすねる。その女の部屋の壁には「なぜ?」の文字がある。

2/承
画面がかわって、街頭で「ニューヨークヘラルドトリヴュー」を売るNY娘パトリシアと会い、喋り歩く。
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別れたミシェルは道端の交通事故の死体を見る。新聞を買い、刑事に追われていることに気付く。IA旅行会社で銀行払いの封筒を受け取り、外にでる。すぐあとに刑事が来て、彼の後を追う。ミシェルとパトリシアが再び会い、ミシェルは追っ手の刑事を倒し、車に乗り新聞社までパトリシアを送る。パトリシアは編集社員と会い、別れ際にキスをする。ミシェルそれを偶然目撃する。ミシェルはパトリシアの部屋に勝手に入りくつろいでいる。パトリシアが帰ってきて、編集者と会っていたのは「記事を書かせてもらうため」だという。(ピカソ、クレーのポスターが部屋に貼ってあり)ルノアールのポスターを貼り、音楽の話、フォークナーの小説の話、その他の話を分裂的にする。
印象的な台詞は以下。(これはやがてのちのシーンでより切実なものとして、再び繰り返されることとなる)
「俺はつかれた 死にそうだ」
「俺はいかれている」
「嘘ならばかげている。ポーカーと同じ。真実をいえば人は嘘だと思う。それで勝てる」
「あなたに愛されたい、なのに同時に愛されたくない。私って気まぐれなの」
そしてミシェルはだいたい以下の3つのことばかり言っている。
「愛してる」
「(彼女と)寝たい」
「ローマへ行きたい」
やがて二人は唐突に愛し合う。それから女の服を買いに外出する。

以下「勝手にしやがれ2」へ続く-
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「勝手にしやがれ」1からの続き-
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3/転
パトリシアがDIORで服を買っている間、ミシェル車の中で新聞にお尋ね者として記事となっている自分を発見、丁度同じく街頭で新聞を眺めていた通行人(ゴダール)に発見されてしまう。何とかやり過ごして、ミシェルはパトリシアを空港のインタヴュー会場まで送る。パトリシアは新作「カンジダ菌」を発表した作家パルヴュレスコをインタヴュー。機知のきいた会話をする。その間ミシェルは中古の車仲介業者に車を売ろうとするが、新聞の記事を見た業者の男に足元をみられ、失敗。その男を殴って逃走。パトリシアとタクシーに乗りながら、パリの街の批評。女のスカートをいたずらにめくる。
「俺には美がわかるんだ 美だ」
「速度をおとすな。4CVをおいこせないのか!スクーターのほうがいいぞ」
「車を大事にするやつはきらいだ」
車内、エネルギッシュなビートにのって言葉が連なる。
2人は別れ、女は新聞社へ。刑事がきて、新聞をみせられ、関係を疑われるパトリシア。刑事に尾行され、映画館へ逃げ込む。館の裏口から逃げ、ミシェルと会う。二人で西部劇の映画を見ながらキスする。
「気をつけろ 口づけの斜面で時はさる。触れる舞い砕け散った思い出には」
「いいえ 保安官 私たちの物語は気高い悲劇です すべてが私たちの恋を美化するのです」
車を失った2人は駐車場へゆき、今度はキャデラックを盗む。外にでると建物の電光掲示板に
「ミシェル逮捕せまる」
の文字。夜の街で仲間のアントニオを探す。BARへ。アントニオとミシェル、ゆすりのため男同士のキス写真を撮ったのち、カンパーニュ街にある女の家(スタジオ?)へ。モデルが写真撮影しているが、やがていなくなる。

4/結
明くる日新聞を買いに出たパトリシアは、CAFEで警察に通報する裏切りのTELをする。買えってミシェルに会うと、その理由を
「ローマに行きたくない」
からだという。当然憤慨し当惑するミシェルに向かって、さらに言う。
「あんたを愛したくないから、あんたを愛しているのか、確かめたくて寝たの。意地悪になるのは愛していない証拠ね」
「人にかまわれたくないの」
「俺もそうさ」とミシェル。
「愛してる?」
「勝手にそう思えばいい」
「だから密告したのよ」
「俺の方がマシだな」
「行ったほうがいいわ」
「どうかしてる。情けない理由だ。誰とでも寝る女と同じだ。そのくせ愛する男とは寝ない。他の男と寝たからといって・・・」
「なぜ いかないの?私は誰とでも寝たわ、私を信じないで」
「いや もうだめだ 刑務所も悪くない」
「狂ってる」
「ああ 誰とも話さず壁をみるだけ・・・」
ミシェル外へ。金を渡しに来たアントニオと会い、金を受け取るが、逃げようとさそう車には乗らず、拳銃も受け取らない。
「もうたくさんだ 俺は疲れた 眠りたい」
「シャクだが、あの女が頭からはなれない」
やってきた刑事に背後から撃たれて、しばらく走って道に倒れこむ。臨終のミシェルを囲む刑事とパトリシア。ミシェル最後の呟き。
「まったく 最低だ・・・」
パトリシア、カメラを正面から見据えて
「最低ってなぁに」
と聞き、唇を親指でなぞるミシェルの癖を模倣してみせる。
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                   ☆印象
この映画は冒頭の字幕にあるように、「B級ハリウッド犯罪映画専門会社モノグラム」に捧げられている。あくまで「A級」ではなくて「B級」の「犯罪映画」である。これはタランティーノが「KILL BILL」でやったこと(KILL BILLが深作やB級ヤクザ映画にささげられていたことを思い出そう)つまり飽和状態に陥った映画それ自体の価値転倒を目論んだものの先駆けと推測される。そしてこの前提があればこそ、すなわち自らB級を名乗ったからこそ、A級ではなしえない型破りな奔放な表現(カメラ目線、細かいカットの交錯、荒々しい編集等々)が成就したのではないか?若々しくてカジュアル、成熟の一切が後景に退き、盗んだ言葉は軽快に、盗んだ車は時速180KMで奔走し、映画それ自体が運動性を秘めて、躍動する。例えば写真表現におけるWILLIAM KRAINの「NEW YORK」、あの躍動に満ちたカメラの向こうで拳銃を突きつけてみせる子供たち、スラングのエネルギッシュな生を閉じ込めた型破りな表現と同様の型破りなカジュアルさが映画全編を通底するトーンだ。そしてそのトーンが色々な場所から蒐集された言葉の感覚的なCUT UPで飾られる。

台詞をみてみよう。
冒頭のシーンでのミシェルの台詞。
「つまり おれはアホだ 結局はそうさ アホでなっくちゃ」
このあとに唇を撫でる彼の癖。(写真2)
そしてラストシーンでのパトリシア。
「最低ってなぁに?」
このあとにミシェルの癖を模倣してみせる。(写真5)

以上のように「勝手にしやがれ」とは「B級犯罪映画」に捧げられ、「アホ」に始まり、「最低」におわる映画なのである。いかにして「ロマンチックなアホ」であり、「美がわかるアホ」であり、「速度にたいするアホ」であり「盗んだ車に固執するアホ」であり、「愛に対するアホ」であるのか・・・・この言葉は蓮實重彦によってこのように映画のレベルに拡大解釈され、アホを「馬鹿」によって置き換えられて繰り返される。

映画を見るのが好きだったり、好きな映画について語ったり書いたりするのがするのが好きだったりする連中は体験的な事実として、そのほとんどが馬鹿だと断言しうる。馬鹿とは何かという定義以前の段階で、彼ら、あるいは彼女らは馬鹿だと思って間違いない。また、映画を見るのが好きでなかったり、にもかかわらず見てしまった映画について語るのが好きではない連中も、ほぼ例外なしに馬鹿である。さらには映画を見るのが好きでも嫌いでもなく、それでいてときに映画を見てしまったりする連中も程よく馬鹿だといえようが、彼ら、また彼女らの馬鹿さ加減が、映画を見ることにまったく関心を示さない連中のそれよりおとっていたりまさっていたりするわけではいささかもない。では、映画が積極的に嫌いだと公言する連中が馬鹿でないかというと、これまた馬鹿たることをまぬがれていない。体験的な事実として、彼ら、または彼女らも救いがたく馬鹿だと断言することができる。そして、以上の言説から、人類は押しなべて馬鹿の集積からなっているのだという命題を涼しい顔で引き出してみせる人間がいたとするなら、これまた馬鹿というほかない。いま、さしあたり問題なのは人間が多少とも馬鹿であったりなかったりする生物か否かを知ることではなく、馬鹿たることによってしか人は映画と関わりを持ち得ないという事実である。繰り返すが、馬鹿とは何かの定義はこのさいどうでもよろしい。映画を肯定するにせよ否定するにせよ、映画という言葉で人が何事かを想像しうるかぎり、人は馬鹿たることをうけいれねばならない。そしてそのことを、人は体験によって熟知している。それは間違いのない事実である。というのも、この世界に映画が存在しなければならないという正当な理由もないのに、誰も積極的にその正当な理由の欠如を不思議に思ったりはしないからだ。

つまりゴダールがこの映画でいわんとしていることとは、「お洒落に生きろ」とか「人生を楽しめ」とか「会話は気を利かせて」とか「知的にスマートに」とか「服はDIORで」、といったことでは断じてない。そうではなく、ゴダールはわたしたちに「アホたれ」「アホとして生きよ」ということを言っているのである。要するにブルジョワジーは「勝手にしやがれ「ぬ」」奴らどもであり、その中で「勝手にしやがって」生き、そして「アホ」たれといったゴダールは「アホ」たれといったそのことによって自ら映画「アホ」を体現し、ヌーベルバーグの「アホ」の英雄になったといえるだろう。a0065481_13213425.jpg
所詮人間なんて「アホ」どもなのであって、せいぜい知的な衣でそれを包んで砂糖菓子のようにしたところで本性は隠されえぬものだとするならば、それならば「勝手にしやがった」ほうがよっぽど魅力的なことに相違ない。そしてこの映画の真の魅力はそこである。これほどの透き通るような素直さでゴダールが映画を撮り得た、それ故にこの映画はゴダールの最高傑作ではないだろうか、つまり成熟のかわりのスピードが故に。そして死と遊戯するその闊達な精神がゆえに。

                  ☆符号
いわずもがなこれは「映像作品」である。ここで表現されているのは映画でしか表現できない言語(映像言語)だ。そしてそれは軽快で自由なものであり、そういったものが孕み得る既成権力への反発である。もちろんこれはオマージュかもしれない。しかし捧げられる対象は「反発そのもの」(つまり犯罪という名でよばれざるをえない「反発」、もしくは「B級」であることを「是」とすることによる「A級」への反発、あるいは「アホ」や「最低」であることを肯定的にとらえるという「反発」そのもの)であって、間違っても優れて立派であることなどは指向しているわけではない。表現が孕み得る反発、それは今日でいう「絵文字」のようなものだ。映画という文法、映画という絵文字、都市という絵文字、が優れて効率的に纏められている。

そして作中では、それらが「限定された言葉数で反復されており、作中を埋めるのはおおくの符号である。これは一見「勝手にしやがって」いるようで、実際は計算されて構築されている。その意味においてはこの映画はまったく「勝手にしやがれ」ではない。

例えば上記の冒頭(起)と終末(結)のシーンでその形を変えて反復される唇を撫でる癖。あるいはの起のシーンでミシェルが交通事故で街頭に横たわる死体を見つけるのは、自らの未来をすでに予見している。またミシェルが拳銃を放って華々しく幕を開けるこのドラマが、結局はミシェルが拳銃を使用することを放棄して、刑事によって背後から撃たれて終わるという悲劇の形で結ばれている。そして承の室内シーンで使われた幸福なムードの中で、その「幸福」への修辞作用を齎した台詞が、そのまま結の室内シーンで今度は「悲劇」への修辞作用として使用されている。

こういった映像や言葉の符号は屋外で撮られたシーンも含めて、この映画に曰くがたいミステリアスな影を付加するその意味で、この映画は「欲望」の映像言語と共通したなにかを感じる。つまり不可思議な浮遊感、表現しているものと意味しているものの乖離のようなもの、を感じてしまう。おそらくゴダールの偉大さはそこではないか、三島でもそうだが、これは読みきれない、解釈を拒絶するテクストめいたところがあって、だからこそ何度見ても楽しめる不可思議な深みがあるのだと思った。
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