カテゴリ:ヴィム ヴェンダース( 4 )

「自分がだれかわからない。素性の知れないだれか。過去も国もないけれど、それがいい。私はここ、私は「自由」、なんでも思い描ける。すべてが可能―」「ベルリン天使の歌」より
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☆「さまよい」
◆現代人というのを、すこしおおきく考えると、国籍や性別を問わずに、今までわたしたちをわけへだててきた枠ぐみがちょっとづつ曖昧になってしまって、誰もがみな、どこかを「さまよっている」状態なように思います。

◆ここにいたり、ここにありながら、心ここにあらず。

いつもどこか別の場所を夢見ている。そういうものを「自由」―と、いうのでしょうか。イタリアのネオリアリズム映画、フランスのヌーヴェルヴァーグ、ビートニックのようなアメリカ文学、ヒッピーやレイヴァーやセレブだけにとどまらず、ワーキングプアやニート、フリーターといわれる漂泊の人々たちは基本的には「同じ状況の別の言い換え」のように思われてしまう。それは現実的なさまよいだけ―ではなくて、価値のさまよいであり、魂のさまよいです。故郷とリアリティを喪失して、コンピューターやテレビスクリーンのような、ヴァーチャルで平板でフラットな地平をさまよう。そして、そこには通過儀礼的なものがありません。終わりもなく始まりもなく、ただただ漫然、えんえんとさまよってゆく。ある種の記憶喪失、自我喪失的なさまよい―白昼夢のさまよい、そういったものが、現代人のさまよいなようです。

こういった「さまよう」人々の背中やうしろすがた、そこにただよう情緒をこのヴィム ヴェンダース監督はしっかりと見つめます。
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◆「都会のアリス」(1973)ではジャーナリストと少女の都市から都市へのさまよいを、「さすらい」(1975)では漂泊の映像技師を、「左利きの女」(1977)では自立へと向かうドイツ女の葛藤とみじめなさまよいを、「ことの次第」(1981)では完成しない映画の金策へと走るプロデューサーのさまよいを、「パリテキサス」(1984)では愛し合う二人の愛のさまよいを、「東京画」(1985)では小津という夢とメタフィクションへの自身のさまよいを、「ベルリン天使の歌」(1987)ではベルリンをさまよう幽霊を「都市とモードとビデオテープ」(1989)では都市をさまようヴェンダースの独白と呟きを、「ブエナビスタソーシャルクラブ」(1999)ではキューバという国家のさまよいを、そして「ランド オブ プレンティ」(2004)ではベトナム帰りの男の魂とアメリカ合衆国の漂泊を、しっかりと見つめ、独自の映像スタイルで描き出しています。そこには「さまよう」ことに対する共感と、現代人が国籍を超えて共有する問題が孕まれているように思います。

◆そして、なにより、その「さまよい」がこそ、ヴェンダースを「ロードムービー」という名称で代名するのではないでしょうか?ヴェンダース映画を見ていると、あたかも「ロードムービー」とは「さまよいの映画」であり、あてもない時間のプロセスを楽しむことにあると言っているかのようです。

◆現代社会を生きるうえで一人の人間が抱えてしまう辛さ、せつなさ、迷い、戸惑い、苦しみ、悲しさ、そして「さまよい」―まったく彼の人生観とは、あてどのない「旅」であるということが実感されます。
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☆孤独と喪失の物語
◆もうひとつ、ヴェンダース映画を特徴づけること。それは登場人物が原初的な「孤独」と「喪失」をかかえているところです。

◆それは愛や旅や音楽によっても、癒されることを前提としていないようなものです。その、いずれもが映画内での解決をあたえられない。(だから、ヴェンダースの映画は見ようによっては、残酷で生々しい現実の姿をつたえます)「都会のアリス」のアリスは結局母と出会えないし、「左利きの女」のマリアンヌはのぞみながらも報われない愛の複雑さに消耗しています。「パリ テキサス」のトラヴィスとジェーンは愛しあいながらも、けっきょく互いにはなればなれで暮らすことを暗示するシーンによって終わりました。

◆こういった孤独と喪失はヴェンダース的物語世界を貫く基調音でありながらも、けして解決が与えられずに、サスペンドされて、宙ぶらりんにされるのです。ヴェンダースは、都市や現代に渦巻く多様なイメージを扱いながらも、人間はそう簡単に癒されたり、幸せになったり、満たされたりするものではない―という厳しい現実を見つめます。

◆そこがヴェンダースのまなざしの「大人」なところなのではないかと思います。つまり、簡単に「言葉」の世界で解決されないものが人間にはあるということをヴェンダースはよく見つめています。

◆だから、ヴェンダース映画は「言葉」による物語の解決を目指さない。それよりは淡々として、えんえんとした「時間そのもの」を描くことを、表現の目的にしているのだといえます。

「20年ぐらい若い頃、「時間」をデザインできないかと思っていました。古着や使い古されたものが好きだったので、本当の古着の風合いを得るには10年ぐらい待たねばならない・・・それが時間のデザインです。時間がデザインできたらどんなに素敵でしょう」(「都市とモードのヴィデオテープ」より、山本耀司のセリフ)

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☆ヴェンダースの系譜―ワンダーフォーゲル
こういったヴェンダース映画に描かれるような生き方をドイツという国の歴史から探してみると、「ワンダーフォーゲル」(渡り鳥の意)という運動に似ているようです。

「ワンダーフォーゲル」とは20世紀の初頭にベルリン郊外からはじまった運動です。ショートパンツやニッカボッカに大鍋とギターを背負うといったスタイルで、都市を捨て、歌を愛し、自然とたわむれる。ちょっとサンフランシスコの「ボヘミアン・ヒッピームーブメント」を彷彿とさせるようなものですが、どうもこういった運動が前世紀からなんども繰り返されているんですね。

ちなみに、「くるり」の曲で同じ名前のものがあったかと思いますが、ヴェンダースは都市こそ捨てないものの心情的には近いんじゃないでしょうか。
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☆コムギャルはゴダール的、ヨージはヴェンダース的?
◆さて最後にちょっと、方向性を変えて、ファッションとのアナロジー(類比関係)を話してみます。

◆1980年代以降、日本を代表するデザイナーにコムデギャルソンと山本耀司がいます。はじめのうちはとてもよく似たコレクションを発表していましたが、だんだんそれぞれがそれぞれの世界観、人生観の違いを服にこめるようになりました。あくまで感覚的な印象にすぎませんが、映画にたとえるならば、コムギャルの洋服は「ゴダール」の映画に山本の洋服は「ヴェンダース」の映画に似ているように感じます。

◆その感性のあり方や物事のとらえかたが似ている。コムギャルの洋服は色の感覚が軽快でPOP、洒落とその時々の機知に富んでいる。軽やかさをいつも失わず、それでいてインテリジェントな匂いをただよわせるのは「ゴダール」でした。

◆そして、山本の洋服は黒ベースで白黒映画的、光と影のたわむれに奔放な感性の飛びを発揮し、古めかしいものを現代風、SF風なものとして表現しうる力量にめぐまれている。かつての古めかしい「アメリカ映画」の良質な部分をぬきだして、現代映画として提示したり、光と影でたわむれたりするのはヴェンダースです。(じっさいヴェンダースは登場人物にこんな風にいわせたことがありました。「自然のすべては光と影にすぎない。絵というものはただたんにその明暗を描きわけることなの、明暗、すなわち光と影よ」「ことの次第」)


◆それじゃあ、もうすこし現代風にいってみてアンダーカバーやFRAPBOISや109のデザイナーはどうなのか?

映画よりもアニメや漫画に近いんじゃないか?
小説よりもよりヴィジュアルなハリウッド映画に近いんじゃないか?
遠さよりも近さに、過去よりも未来に近い?

それは、ちょっとボクにはよくわかりません。
たぶん、言葉にならないまでも、じつは、感覚的にみなさんの方がよく知っているのだと思いますので、ご想像におまかせするということにして、今回はこのあたりでおしまいです。
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「君はどこに住もうと、どんな仕事をし、なにを話そうと、何を食べ、何を着ようと、どんなイメージを見ようと、どう生きようと、どんな君も君だ、独自性、人の、モノの、場所の―独自性、身震いする、嫌な言葉だ、安らぎや満足の響きが隠れている独自性、自分の場、自分の価値を問い自分たちを似せる、それが独自性か?創った自分たちの一致が?自分たちとは誰なのか?ぼくらは都市に生き、都市が生きて、時とともに都市から都市へ国から国へ動き、言葉や習慣が変わり考え方や服が変わる。全てを変え、全てが変わっていく―」
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◆モラトリウムなヴェンダース
ヴェンダースはほんとモラトリウムな人だ―と思う。
映画のタイトルでもあったけれども時空間を「さまよい」、いろいろな国で「ベルリン天使の歌」の二人の天使さながら都市を彷徨し、個人的なドキュメンタリーを連ね、現実から切り離されたファンタジーではなくて、現実と地続きのマジカルリアリズム的に作品にしてしまう自分の領土(テリトリー)をもたない脱テリトリーの「都市遊牧民」。そんな調子がその時その時の彼の偽らざる動向を伝えてくれて、それでなんだかとても身近な存在に思えて、弱いところも強いところも、その綺麗なところも醜いところも、西洋人の馬鹿げた勘違いも鋭い批判精神も―よく見えて、そんなこんなが見えれば見えるほど好きになってしまうところがある。そう だって、人は人を強さからは愛さないものだろうし―弱いところが伝わると弱さに魅了されてしまうもの☆ところで北野武の新作「監督ばんざい」はどうやらヴェンダースを意識したらしけれども、そういえばこの映画の題材であるデザイナーの「山本 耀司」を媒介にして、北野映画とヴェンダースは繋がるところがある。山本経由の東京ラインって確かにできそうで、たしかに山本ほど高級な感性ではないけれどもハイカルチャーに毒をもって反抗する北野は北野でなかなかステキじゃないかしらん―☆
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◆山本耀司
本作はファッションデザイナーの山本耀司を主題にすえたドキュメンタリータッチのもので、山本というデザイナーとヴェンダースという映画監督が「都市」を共有するような感覚があるように思った。都市に寄生し、都市から感覚を略奪し、それをコラージュすることによって、都市そのものを書き換えるような表現者としての姿勢の中になにかしらの共通項をお互いに感じていたようで、そういった共有感覚が映画の核となり、「東京」という西洋ブルジョワナイズされた東洋の都市をイメージとして形成しているのだろう。情報のコラージュとアレンジメントとしての表現者間のある種の鏡の戯れ―映しあうことによって増幅されるイメージ。ボヘミアン、東洋の未来都市、開国以来引き続く「東京」のヨーロッパへの憧憬、古き良き時代へのノスタルジア―ただ個人的に思っている山本のよいところがあまり引き出されていないのは残念だった。ヴェンダースは山本をもう少し下調べすればよかったのに―という気がする。アンフォルメやアシメントリー、oversizeでやわらかく包み込む豊饒な墨黒なんて、もっと強調されてよかったんじゃないだろうか。せっかく山本を描いておきながら、ファッションにまつわる根本的哲学とイマージュに終止していて、「わびさび」的スノヴィズムへの表現的な踏み込みが弱かったのは、ちょっと残念だった。

山本を題材にして、彼を鏡とした、ヴェンダースの心情告白、心情吐露。東洋と西洋の邂逅というヴェンダースの呟き―そうして二人が共有する時間性へのプルースト的、G・マルケス的なこだわり。
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◆オリジナルとコピー
この映画はひどく哲学的な内省の言葉が多くて、それが映画の核になっている。表現者としての内省は自らのモチベートと姿勢をあらわすものとして、舞台装置の裏側を思わせるものだ。だから映画はドキュメンタリーという表現様式に相応しい、裏側を、オルタネイティブな解体劇を、そしてなにによって表現を欲したのか、表現への姿勢をどう考えているか、といった通常の映画では見られない「メイキング オブ―」をあらわす。したがって、これはいわゆる構築によった映画ではなくて、むしろ逆の解体を描いた映画だ。そしてこういった内省的な解体が基となって、ヴェンダースはこの後の傑作というか、解体に根ざした再構築をやってのける。
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この映画は表現にまつわる「姿勢」にまつわるものだ。ヴェンダースは山本の洋服に対する姿勢にシンパシーを覚えて、自らの職業となぞらえてみせる。

「映画のスタッフと同じだ。耀司はおわりのない映画をとる監督なのだ」(作中より)

あるいはこんな現代に対する明晰な批判精神をそなえた素晴らしい言葉はヴェンダースと山本の「姿勢」に共通するものだろう。

「(古い写真の)彼らは服を消費しません。私はそういう服をつくりたい。今の時代、例えば日本ではみんなが自分を金持ちと思っているので、何でも無駄遣いできると思っています。人生さえ無駄遣いする。何でもムダに使うので物事の意味がわからない。石ひとつ、木一本一本の意味がわからない。何でも買えると思っているのは悲しい。だから古い写真の時代に戻るのが嬉しいのです。当時の人々は何もかえずに、身のまわりの簡単なモノで生きるしかなかった」(作中より)

「映画」の歴史と未来への考察、重なりあう言葉としての「ファッション」の歴史と未来への考察。表現者的な共有。二人の表現者の姿勢として共通していること、構築すること―それは徹底的に解体する、ということだ。
アイデンティティの解体―わたしそれ自身の独自性を分解してしまうこと。
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「君はどこに住もうと、どんな仕事をし、なにを話そうと、何を食べ、何を着ようと、どんなイメージを見ようと、どう生きようと、どんな君も君だ、独自性、人の、モノの、場所の―独自性、身震いする、嫌な言葉だ、安らぎや満足の響きが隠れている独自性、自分の場、自分の価値を問い自分たちを似せる、それが独自性か?創った自分たちの一致が?自分たちとは誰なのか?ぼくらは都市に生き、都市が生きて、時とともに都市から都市へ国から国へ動き、言葉や習慣が変わり考え方や服が変わる。全てを変え、全てが変わっていく―」
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この作品は分解することと構築することに関わる根本的な問いの作品だ。無垢な創造というものはこの東京ではありえないということ。創造は引き裂かれた両極の微妙なバランス、つまり脆くも儚ない均衡ー繊細な時のロープの、その瞬間へと注がれる勘と集中力の場で一瞬のきらめきをあげては潰える夢の閃光だ。フラッシュライトの光芒が明滅する。そしてヴェンダースはそれを理解する、しかし少し間をあけて、その理解はやわらかな否定によって、見えなくされる。ここにあるのは―オリジナルとコピーの関係への飽くことのない考察と葛藤。まずコピーの勝利を独白するヴェンダース。

「この都市に有効なイメージは電子によるイメージであって、聖なるセルロイドのイメージではないとわかった。ヴィデオカメラは独自の言語でこの都市をきちんととらえていた。ショックだった。映像言語は映画の特権ではない。全てを見直さなければならない。独自性や言語像、原画の意味を。未来の作家とはCMやヴィデオコンピューターゲームの作者ではないだろうか?」(ヴェンダースの独白)

そしてこのコピーが本物(すなわち独自性)によって、支えられるという山本の指摘がしばらくのちに続く。

「本物のシャツをつくり本物の椅子をつくるとは物の本質を見つけること」(山本耀司)

おそらく―
この二つの言葉はこの映画の美しくもきらびやかな矛盾と葛藤を示している。
そうしてこの二つの極に位置した言葉をめぐる中間的な場所の探りあい、探究がこの映画の真のテーゼではないだろうか?もし仮にそうならば、この映画の現代性は少しも失われていないだろう。なぜなら、犯罪から小説、アート、音楽からファッション、映画にいたる現代社会としての表象の矛盾と葛藤とはおしなべてこのオリジナルとコピーをめぐる問いかけなのだから―

オリジナルであるとはどういうことだろう?
そしてコピーであるとはどういうことだろう?
あるいは独自性というのはどういうことだろう?
アイデンティティとはどういうことだろう?

◆消費社会の神話と構造
フランスの社会学者ボードリヤールのオリジナルとコピーにまつわる興味深い論説をみてみよう。ここでコピーはひとつしかない芸術作品でありながら、多くの人々が手に入れられるという逆説的なモノとして語られている。ひとつでありながら、おおくであるというパラドックス。

「芸術作品は幾世紀もの間ひとつしかないモノ、特権をもたらす要素として大衆から隔離されていたが、ようやく孤独からぬけ出す時が来たのだ。よく知られているように、美術館もまたかつて聖域だったが、今や大衆が孤立した収集家や目の高い美術愛好家に取ってかわった。工場で生産される複製だけが大衆に好まれるわけではない。ひとつしかない芸術作品でありながら多くの人々が入手できるオリジナルコピーこそ大衆の求めるものだ。」(「消費社会の神話と構造」J・ボードリヤール P145)

山本の職人技術の精髄をクチュール化にたくして、よりその技術のシックでしとやかな結晶を純粋なオリジナルコピーとして享受し、みずからを差異の無意味な記号の戯れに預けてしまうこと。グッドデザインとヒューマンエンジニアリングプロダクト製品化する大衆願望―というよりは潜伏した大衆の集合的無意識。

「作品の絶対数が少なかったために成り立っていた芸術への投機の時代は終わりを告げた。「無制限につくられるオリジナル・コピー」の出現とともに、芸術は産業的生産の時代に入る。」(同上 P145)
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世界に先駆けて訪れた消費社会の中でボードレールやベンヤミンが思考し、のちにアメリカの消費文明の中でフィリップ K ディックは<もどき>といった。前述の社会学者ボードリヤールは著作「シュミレーションとシュミラルクル」の中で、「わたしたちは<模造人間>だ」と述べた。そして―というかその流れを汲むようなかたちで、ヴェンダースは問うのだ。
そしてこの問いかけが故にヴェンダースは何にも変えがたく現代を代表する表現者のように思われるのである。

最後にもう一度繰り返してみよう。

「君はどこに住もうと、どんな仕事をし、なにを話そうと、何を食べ、何を着ようと、どんなイメージを見ようと、どう生きようと、どんな君も君だ、独自性、人の、モノの、場所の―独自性、身震いする、嫌な言葉だ、安らぎや満足の響きが隠れている独自性、自分の場、自分の価値を問い自分たちを似せる、それが独自性か?創った自分たちの一致が?自分たちとは誰なのか?ぼくらは都市に生き、都市が生きて、時とともに都市から都市へ国から国へ動き、言葉や習慣が変わり考え方や服が変わる。全てを変え、全てが変わっていく―」
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わたしたちとはいったい誰なのだろう?
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パリ、テキサス
1984/西ドイツ フランス
監督/ヴィム・ヴェンダース
主演/ハリー・ディーン・スタントン
    ディーン・ストックウェル 他
          


喪失と回復のほろ苦さがこそ「成熟」の言葉でよばれるのだとしたら、それらが極めて抑制の効いた、それでいてツボを抑えた語り口で現代的に物語られるとするなら、それこそが「PARIS TEXAS」だ。ここで描かれるのはまばゆい純粋な夢ではない。冒頭のランドスケープは荒野であり、そこに置かれた水の出ない蛇口あるいは荒れ果てた商店であり、それらは「夢」などではなくて、「夢の残骸」というのが相応しいし、主人公のトラヴィスの明らかに何かを喪失し、強く強烈な体験に自失してしまった目がその残骸ぶりを露呈させている。つまりこれは饗宴の後の風景であって、トラヴィスはなにもかもを失い破産してしまった男である、といっていいだろう。そうしてこのような破産状態からの回復の物語がここで物語られる。
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まずはじめにやや細かく物語りを辿ってみよう。

     
☆物語
 この物語は3つの舞台転換をもっている。それぞれがトラヴィスの心理状態に対応しているように思われる。括弧内はその心理状態である。
1、テキサス(自失、荒廃した心理からウォルトとの再会を通じて回復に至るまで)
2、ロスアンゼルス(穏やかな回復、息子ハンターとの再会と心の寄り添い)
3、ヒューストン(回復、ジェーンとの再会、そして別離へ)

以下詳しく見る。

  1、テキサス(自失、荒廃した心理からウォルトとの再会)
 主人公トラヴィスは40代ぐらいの中年の男、その男が灼熱のテキサスの荒野を彷徨っている。赤いキャップにスーツのいでたち、蛇口をみつけてひねるが水さえもでない。商店をみつけて氷をかじり、倒れこむ。商店主がそれを見つけて看病、病院へ送られる。場面転換。ちょっとヒッチコック的でトリッキー。映画製作の看板を背景に弟のウォルトと妻のアンが登場。ウォルトはトラヴィス発見の電話を病院から受け取る。ウォルトは病院の医師らしき男と荒野のカフェで出会い、トラヴィスがまた蒸発してしまったことを知らされる。男の口から「何があったのか」という問いが発せられるが、弟は分らない。ここで中心的なテーマは示唆されながらも、まだ明らかにされていない。帰路、草原をよこぎるウォルトの車、トラヴィスもまた偶然この草原を彷徨っている。そうして二人は偶然再会する。(これはのちでもそうだが、この映画の腑に落ちないところ、こんなに簡単に偶然人は出会ったりできるものだろうか、という疑問は残る)しかしトラヴィスの心は容易には開かない。ウォルトの質問や過去の事についても黙ったまま。モーテルでトラヴィスの靴を買いに出たウォルトを尻目にシャワーを浴びるフリをして、また蒸発してしまう。ウォルトは探し出して線路上を歩くトラヴィスを発見。諭して帰り、レストランで簡単な身の上話をする。明くる日車内で沈黙をつづける兄に痺れを切らしたウォルトは怒り出す。するとトラヴィスは「パリ」という。「パリにいったことがあるか、今から行こう」と。家は遠いため、飛行機で帰ろうとするウォルトに対してトラヴィスはそれを拒否。結局離陸直前で降りてしまう。仕方なく2人は2日かけてレンタカーで帰ることに、それもトラヴィスの要求で先ほど借りていたレンタカーと同じ物をなんとか頼みこんで借りる。その車内でトラヴィスは、通信販売で買ったというテキサスにあるパリという土地の写真を見せる。そこは空っぽで何もないが、両親がはじめて愛し合い彼の人生が始まった場所だという。それからウォルトが引き取って養育している息子の話、4年ものあいだ彼がいなかったことが明かされる。
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2、ロスアンゼルス(穏やかな回復、息子ハンターとの再会と心の寄り添い)
 ロスの丘のうえのウォルトの家へ戻る。妻のアンと息子のハンターを紹介され皆で食事。就寝。朝靴を磨いて丘の上で双眼鏡をのぞきんで、トラックを追うトラヴィスに朝食はどうかと声をかけるアナ、断るトラヴィス、後にあらわれたハンターに声をかけるが、そっけない。ウォルトの新しいブーツと自分の古いブーツを取り替えてもらう。(靴に対する何かしらのこだわりがあるのだろう)登校時間になりハンターを送るアンに「迎えは自分がいく」と提案するトラヴィス。アンは賛成するが、ハンターは嫌がり、結局迎えに来たトラヴィスを嫌がり、ハンターは車の友人で帰ってしまう。家でウォルトに諭されるハンター、昔のビデオを皆でみる。トラヴィスとハンター、それからトラヴィスの妻ジェーンと弟夫婦の仲睦まじい旅の思い出。そして見終わった後の思い沈黙はこの場に欠落しているジェーンの存在と過去の傷のため。明くる日はドレスアップしてハンターを迎えに行くトラヴィス。最初は道路を隔てた舗道を歩くが、やがて合流する。うちとけた二人はアルバムをめくり、家族の話。夜ウォルトとアンはハンターがトラヴィスのもとに帰ることに動揺する。丘の上に坐るトラヴィスにアンはトラヴィスの妻ジェーンの事を話す。銀行口座に様々な金額での振り込みがあったこと、それがヒューストンからだったことが告げられる。トラヴィスはハンターにジェーンを探しに行くことを告げる。ハンターは自分も同行するという。そうして二人のヒューストンへの旅が始まる。
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3、ヒューストン(回復、ジェーンとの再会、そして別離へ)
 ヒューストンで手がかりは銀行というだけ。トランシーバーを使いながら、ハンターが銀行のまえで張り込んでいるとジェーンが偶然赤い車に乗ってあらわれる。(それにしてもなんて簡単に見つかるのだろう!)車で後を追い、場末のテレクラ?イメクラ?(セックスはしないようなのだが、性的サービスを売る職業)に行き、ハンターを残して、トラヴィスは客としてジェーンを呼ぶ。最初は似ているが違う女が、二度目にジェーンが現れる。この店は特殊ガラスを使用しているため、トラヴィスからジェーンは見えるがジェーンからトラヴィスは見えない。トラヴィスはジェーンが分るが、ジェーンはトラヴィスが分らない。トラヴィスはセックスに関する感情的な質問をぶつけて、ジェーンを戸惑わせ、でてゆかせようとしてしまうのだが、なんとか引き止める。引き止めると同時にトラヴィスは席をたってしまう。バーでハンターに「パリ テキサス」の写真を見せるトラヴィス。ガレージのような寝室でトラヴィスはトラヴィスの父が憑かれていた妄想の話をする。トラヴィスの父は母がパリの女であるという妄想につかれていたというのである。明くる日ホテルで自分の気持ちをテープに吹き込み、それをハンターに残す。ここでトラヴィスの決闘に向かう決意が仄めかされる。グリッドに囲まれたホテルのビルでそれを聞くハンター。トラヴィスは自分の感情が整理することが出来ずに、自分を恐れる気持ちを吐露する。
「こわい、自分が消えてしまうことがこわい、それに(ジェーンに、あるいは過去の傷に)立ち向かわないことのほうがもっとこわい」
そうしてトラヴィスはジェーンの働く店へ。受話器をもち、ガラスによって隔てられ後ろを向いたままジェーンにむかって、二人の過去の物語を物語る。
トラヴィスが一瞬も離れることを望まないほど、強く烈しくジェーンを求めたこと。それが二人の感情の不確定要因となったこと。トラヴィスの心が張り裂けてしまったこと、嫉妬に狂い、狂気じみたふるまいに及んだこと。それから子供が出来てジェーンが成熟することを拒否し、子供に縛られることを嫌がったこと、そういったことがトラヴィスの心を壊してしまい、彼を「パリ テキサス」をめぐる放浪に彷徨わせたことなどが涙と同時に物語られる。ガラス越しの男がトラヴィスであることに気付いたジェーンは電気を消して、彼の顔を確認して、やはりトラヴィスとハンターに対する愛について、語る。トラヴィスは最後にハンターのまつホテルの部屋番号を告げる。ホテルでの母子の再会。それを外から見守るトラヴィスが車で去ってゆくところで映画は終わる。そうしてトラヴィスはおそらく「パリ テキサス」へと向かうであろうという想像がされる。

☆解説
 この映画は家族愛の因果をめぐるものだと思われる。というのはこの題名の「パリ テキサス」がこそメタフィクショナルなメタファーであって、男性と女性をめぐる解けない循環方程式に思われ、「パリ」という妄想が「行き着けぬ遠い地」という意味を担って、ジェーンの上に折り畳まれるからだ。それは丁度トラヴィスの父がトラヴィスの母に対して憑かれたように抱いた妄想である「パリの女」というもののとパラレルの関係にあるといってもいいかもしれない。トラヴィスの心の奥底にあるもの、それは「手の届かないものへの狂騒的な愛」であり、人間の関係が必然的に孕むであろうエゴが最終的にはどのようにしても満足されないものであることを示唆している。だからトラヴィスは最後において別離し、「パリ テキサス」をめぐる放浪に再び旅立たねばならないし、やや意地悪な言い方をすれば、それはヨーロッパに対するアメリカの文化的憧憬を上手く逆手に取ったといってもいいだろう。テキサスという文化的空白からパリという文化的豊饒への憧憬。そうしてジェーンは場末の女でありながら、トラヴィスにとっては折り畳まれたイメージとしての「パリ」なのであって、この憧憬は彼の出生が「パリ テキサス」であったということからも明らかだ。
 それからクライマックスにおいて一見、ジェーンとトラヴィスの関係性が回復したかに見えるけれども、二人は特殊ガラスと受話器によって(あるいは仕事とプライベートに)切断された距離としてしかお互いを確認してはおらず、物語ることによって、お互いを再確認するだけだ。だから、これはトラヴィスとジェーンの愛が不可能であることを告げており、最後は別れに終わる再会の繊細な距離感を「再確認」によって描いている映画なのではないだろうか?もっともこの物語るという手段によって、二人の傷は癒えたかもしれないという想像は出来るが、それにしても直接的な交わりではなくて、冷たく裁断された微妙な距離を二人が生きているという意味においてこの映画は比類ない現代性をそなえて、現代人の心を抉る。
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それにしても素晴らしい映画である。
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ベルリン・天使の詩
Der Himmel ueber Berlin
1987 フランス 西ドイツ
監督/ヴィム・ヴェンダース
出演/ブルーノ・ガンツ
  ソルベイグド・マルタン
            オットー・サンダー

 シックでインテリジェント。
 音楽、映像言語、セリフ、語られ方までもがよく研がれ、きたえられていている。その背後に歴史的な教養を感じさせる、その意味でヨーロッパ的映画である。というか逆にヨーロッパを語るとどうしても教養的にならざるを得ないともいえる。 カメラマンはアンリ アルカンという「美女と野獣」や「ローマの休日」を取った人物で、古典的な
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カメラワークだが美しい。天使の視線はセピア色に、普通の人の視線はカラーという設定である。
 ヨーロッパやアメリカ、それから日本の古典映画の現代的解釈ともいえるだろう。 この映画は様々な人の呟きから過去現在未来に連なる都市を立体的に再現しようとする試みであり、要約するのが難しい。中心として愛の物語、ラブストーリーと言えると思うが、それ以外の瑣末のストーリが交錯している。自分なりにポイントを要約してみると以下の5点が挙げられる。

1、 肉体性の回復
2、 ボヘミアンチックな都市放浪
3、 物語ることのメタフィクション
4、 モラトリウムな映画人の称揚
5、 歴史性の絶対化

 
 二人の中年天使がベルリンの街を彷徨っている。この二人は特に何かをやろうとして街を彷徨っているとは思えない。ただ字義どおり漫然と彷徨って、多様な人々の心の呟きを聞く。彼らは天地創造から世界を見続けている。 彼らには人の心の中の呟きが聞こえる。呟きは錯綜して音声化されており、フィリップ グラスなどの前衛音楽を思わせて独特である。映画は雑踏の喧騒のようなざわめきに満ちているが、うるさくはない。それは挿入されるビートのない教会音楽のためで、全編に通低するのはビートの排除された静けさであり、人を驚かせるような突飛な場面転換もはずされている。ある意味淡々と、時に哀愁を込めて映画は語られる。この語られ方の独特さがこの映画を独特でインテリジェントな肉体の不在的感性のつよいものにしている。 彼らは何かが足りない惰天使のようにも思われる。描かれていないが、天上界に住んでいられなくなった理由があるのだろうか?彼らの姿は大人には見えない。子供にだけ見える。彼らは自らが永劫に実体をもたない幻であり、「霊として生きるのはすばらしいが、永劫の時に漂うよりも自分の重さを感じたい」ことを願っている。(要するにこれはヴェンダース自身の姿の暗喩ではないか?都市間を彷徨い、映像の海を彷徨い、人生の不断の分裂を味わっているだろう才能豊かなヴェンダース自身の) 作中、物語を創造しようとする老人が登場する。映画の最後のセリフが「人々には語り部がいる、この世のなによりも」であることからして、物語ることのメタフィクションを試みたようにも考えられる。
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 過去の映画の俳優の名がセリフに差し挟まれたり、ナチスの映画撮影のシーンなどがあったり、刑事コロンボのピーター フォークが出演していることなどから、この映画が映画自体の歴史性を対象化したポストモダン映画であることは推測される。これは教養に支えられた「もどき」としての映画であり、その意味で現代的たりえている。DJがダンスチューンをREMIXするように、ヴィムヴェンは過去の映画の記憶をREMIXする。なにより天使とは死者と教養の暗喩のなのである。その意味でこの映画は純に映画的な、映画に捧げられた映画であるといえる。天使とは召還された過去の映画的亡霊であり、実体化するとはその亡霊が現代映画として、REMIXされることなのだから。 作中映画の俳優役のピーター フォークだけが大人でありながら、天使の姿を感じられるというエピイソードも興味深い。要するにこれは映画人の子供心を称えるファンタジーなのでもあろう。意地悪な言い方をすれば「子供時代をわすれにモラトリウムアダルトチルドレンな映画人万歳!!」という映画であるのではないだろうか。 二人のうちひとりの天使が、今夜が最後の公演となるサーカスの、空中ブランコ乗りで天使の衣装を着た女と出会う。この女は天使のキッチュであり、職業を離れて地上に戻らなければいけないという意味で、彼と似たような境遇である。彼女は飛びたいがとべない、自分がだれかわかりたいがわからない、愛されたいが愛されない不幸な女であり、愛と アイデンティティの不在に悩まされている。一人の天使は彼女を愛してしまう。そして実体のない幻の存在から、実体のある存在になりたいと願うようになる。願望かない実体化した彼はそれまでのシックな黒いロングピーコートから、野暮ったいブルーと臙脂とグレーのランダムチェックのハーフコートに着替え、くたびれたハットをかぶる。そして彼女とコンサート会場で再会し、見事二人はむすばれる。彼はふたりでいることのよろこびによって、人間になり、天使では知りえなかったことをする。 おそらくこの物語は頭の中で歴史性を紡ぐインテリを批判し、肉体の実感を称揚しようとしている。
 
中でも作中で印象的な台詞は以下である。

 「子供は子供だったころ、いつも不思議だった。なぜ僕は僕で君でない?時のはじまりはいつ?宇宙の果てはどこ?この世で生きるのはただの夢?見るものきくもの かぐものはこの世の前の世の幻?

 悪があるってほんと?悪い人がいるってほんと?悪い人がいるってほんと?いったいどんなだった、僕が僕になる前は?僕が僕でなくなった後 僕は一体何になる?」

 台詞の冒頭部分にあった「子供が子供だったころ…」は形を変えて、作中で幾度かくりかえされている。上記したようにこれは創造に携わるモラトリウムさの擁護であろう。あるいは時間にくたびれた日常生活にピュアなものを取り戻そうする願望の表出かもしれない。ヴィム ヴェンダースの素晴らしいところは多くの巨匠がそうであるように、人生そのものを受け止め、不幸も幸福も、金持ちも貧乏人も、馬鹿も利口も受け入れ、描き出す優しく成熟した視線である。 テキスト的な映画であり、テキストとして非常によく描かれている。現代映画を見ているのか、古典映画を見ているのか、分らなくなりそうな映画である。

 
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多様な人々の呟きの集積と言う意味で村上 龍の「ライン」を思わせた。 またこれはウィリアム ギブスンの逆を行く映画でもある。何故ならギブスンは肉を軽視し肉体を牢獄だと言うのに対して、ヴェンダースは(肉の)重力の重みが欲しいという。その意味では観念から殺人を起こしたあと、ソーニャと生活を始める「罪と罰」のラスコーリニコフに近い。前者が成金アメリカ文学といってしまえばそれまでだが…。ま ギブスンは、タバコは吸わず、コーヒーは飲まず、絵もかかずに、酸素を吸い、水を飲み、ゲームやっていそうだけれども。 現代日本に生きるものとしては、こういった類の真摯さとロマンチシズムは勿論美しいのだが、同時に時折微妙にギャグにみえてしまうところもあるのは、正直なところである。 あいま あいまに差し込まれるロックのライブがスパイス。ニックケーブがでていて、COOLでした。 あ あと日本のロックガールが出てきて日本語の呟きも差し挟まれます。 ファッションはかなりダサいんだけど、まぁヨーロッパはこんなものでしょう。 平和な時代のアダルトチルドレン映画人が描く都市論的モラトリウム教養ファンタジー映画。

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