火の鳥 4

☆その3へもどるー
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       生物家族をさけぶ猿田博士 「火の鳥 未来編」より 


☆異なるもの同士の「愛」、偏見、それから差別―
それから「火の鳥」でくりかえされるテーマは「愛」です。

「愛」は「愛」でも、同種どうしでとけあったり、その「関係性」がむすばれたりするような平板な「愛」ではありません。

その性質の異なるものたち、たとえば、機械と人間(「復活編」―レオナとチヒロ)、動物と人間(「太陽編」―ハリマと狗族)、エイリアン・宇宙生物と人間(「望郷編」―ムーピーと人間)が愛し合い、ときに偏見や差別を助長し、葛藤します。場合によっては「愛」による生産ではなく、殺戮や廃棄がくりかえされます。

偏見や差別、種族保存の法則と他者や外部の否定、「殺すこと」、「種族の大量殺戮」、そして「大量廃棄」や「自滅」―これも「宇宙編」の牧村と惑星フレミルの住民のように、長い時間を前提としたときにのみ、きちんとわかることができるひとつの愛のかたちなのでしょうか?(手塚は「宇宙」や「時間」が残酷であること―をよくよくわかっている作家のひとりです)

この意味でもっとも興味ぶかく、と、どうじに、哀しい物語が「復活編」です。

ここで描かれるのは、鉄腕アトムと同様に、「機械という無機物」と「人間という有機物」とがどんな風に愛し合い、いかなる偏見や差別、それにともなう葛藤を経て、融合することができるのだろうか?―という興味ぶかい問題の提起とある答えのプロトタイプがえがかれています。

簡単に物語を見てみましょう。

舞台は25世紀の世界から34世紀までの900年の時間を行き来します。
25世紀の世界では人間の少年レオナ・宮津が転落事故をつうじて、脳の半分以上を機械化させ、人間が「結晶体」や、「ガラクタ」に、ロボットが「人間」に見えるようになります。やがて、ロボットであるチヒロと恋に落ちます。少年レオナ・宮津のみならず、ロボットのチヒロも人間のようにレオナ・宮津を愛します。でも人間としてまわりに見られている少年レオナ・宮津はアイデンティティのちがいに苦しみます。脳の半分以上を機械化させ、ロボットを愛するようになってしまった自分は「ロボットなのだろうか?」、それとも「人間なのだろうか?」―少年レオナ・宮津は主治医につめ寄ります。

「おねがいだ!ぼくを人間か、ロボットか、どっちかにはっきりさせてくれっ!!」
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「ぼくはロボットになりたい・・・・」

やがて、少年レオナ・宮津とチヒロは愛の逃走劇をくりひろげます。都市からエアカーでにげだし、辺境の地へ。雪山でエアカーは動かなくなり、ふたりは遭難してしまう。そこで闇で有機死体の売買をする盗賊グループにひろわれ、グループの女ボスに恋されます。でも、少年レオナ・宮津にはまったく興味のない恋です。ボスにせまられた少年レオナ・宮津は女ボスを銃殺し、エアカーをうばって逃走をはかります。が、あえなく事故をおこして、またもや死んでしまう。そして、少年レオナ・宮津は分解されます。盗賊グループの専属の博士の実験手術によって、「心」はロボットのチヒロに、「からだ」は女ボスのものになる。こうして少年レオナ・宮津の「心」をもったロボットがうまれ、「ロビタ」と命名されます。いっぽう、少年レオナ・宮津の「からだ」をもったボスは、やがて、精神がおかしくなって狂い出してしまい、銃を乱射させ、盗賊のアジトを爆発させてしまう。盗賊は壊滅し、ロビタのみが生き残ります。

それから500年後―30世紀の世界では、生き残ったロビタがロボットであるにもかかわらず、人間くさくて人間に好かれ、商品価値があることが認められ、大量生産されることになります。

31世紀にはいると、一台のロビタがひょんな人間の勘違いから、ロボット法にそむいた罪で警察に逮捕され、裁判で有罪とされます。人間はロビタを差別、糾弾し、つぎつぎと廃棄処分にしてゆきます。逆にロビタはそんな人間をボイコットします。大量のロビタがみずから、仕事をやめ、自分で自分を溶鉱炉の中へつきおとしてゆきます。(人間の心とロボットのからだをもったロビタの滅び)

34世紀―月面で「生命の秘密」を探す猿田博士と最後の生き残りである一台のロビタが出会うところで、この編はおわります。

この話はもっと要約してしまえば、人間とロボットをめぐるアイデンティティの葛藤を経て、人間はロボットになった(ロボットと融合した)。しかしその違いから差別され、無実の罪で人間に糾弾された。そして最終的にはみずから滅び、そして「生命の秘密」を追求する博士と出会った―ということです。

つまり、ロボット(「無機物」)と人間(「有機物」)はお互いに愛し合い、わかりあうことができなかった。

「火の鳥」の中で手塚の描く未来像は、歴史にたいするハイブロウな解釈とはちょうど正反対に、どれもペシミスティックで、悲観的なものがおおい。それは、技術の進歩がもたらす同時代的な想像の暗さの反映なのでしょうか?(たとえば、キューブリックの?)そして、わたしたちは本当に手塚が考えるように機械や動物・妖怪、エイリアンを受けいれることができるのでしょうか?

手塚の問いがいまだに現在形で進行している理由がここにあるのだとぼくは考えます☆

異なるものを受け入れること、異なる種族にたいする寛容さはどこまで認められるのだろうか?それは表面的なものだけなのだろうか?多少なにかが起きても、それを認めて受け入れることができるのか?それとも差別と逆差別、排斥と逆排斥のスパイラルに終わりはないのだろうか?・・・。
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by tomozumi0032 | 2009-12-20 00:00 | 手塚 治虫
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