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火の鳥 3

☆その2へもどる―

☆「女」としての火の鳥―フェミニンな宇宙生命体
「火の鳥」は永遠の生命をもった宇宙生命体ですが、この生命体は男性的なものではなくて、女性的なものとして描かれています。

つまり、宇宙生命体は「女性性―フェミニン―」なものです。

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このことは手塚の生命観を見るうえできわめて示唆的だと思われます。よくゲーテになぞらえられる手塚の宇宙観は根本的なものとして、その「女性性―フェミニン―」にあるようです。(「永遠に女性的なものがわたしたちを高みへみちびく」ゲーテ ファウスト(ちなみにこのファウストは手塚が若い頃漫画にして描いていました))実際、火の鳥に接したときの、男性との関係にはエロテックで、女性に接した時の男の反応を思わせるようなところがあります。ある話においては「おれのもんだぁ!」とさけんで、手荒らにとびかかり(「黎明編」のナギの兄 ウラジ)、ある話においては美しい笛の旋律を聞かせ(「ヤマト編」のオグナ)、ある話においては火の鳥そのものと融合をこころみます(「未来編」の山之内)。ちょっとこういう態度って「恋するもの」の態度に似ていますよね(笑)―そして、なにより、彼女は人々を誘惑し、魅入らせてしまうような「魅惑の力」と「超越性」(「超―生命性」、「超―時間性」)をもっていて、それが男女を問わず、人間には魅力的なものとしてうつります。時代を問わず、「時の権力者」―その権力に見合った超越性―を求めて、奔走します。がしかし、火の鳥は一神教的な「人間」ではありません。それは「鳥」です。しかも男性ではありません。「女性」です。

すなわち、人間ではなく、男ではない超越者。
優雅に「時空間」を舞い、飛び、時に人々を魅了し、時に人々に教え諭す超越者。


「女」としての火の鳥。フェミニンな宇宙生命体―こういったゲーテ的な宇宙観をベースとし、超越的生命としているところに、狭い人間社会だけにはとどまらない手塚の宇宙観の面白さがあるのではないでしょうか?(いくら劇画へ歩み寄っても、手塚はこの「動物・女性的なもの」を捨てはしなかった、そして、この「動物・女性的なもの」の後継者こそが宮崎駿です)

つまり―人間や「男」を相対化する視線。
漱石の孫、夏目房之助氏が手塚に入れ込むのは当然です。だって、漱石の「我輩は猫である」の面白さは同様の人間社会を相対化し、批判する動物の視点の面白さだからです、猫は、火の鳥同様人間社会の卓越した批判者であり、ある意味ではとてもアニメ・漫画的です。

漱石の「猫」も、手塚の「火の鳥」も、ナウシカの「オーム」も、ポニョの「ポニョ」も―問いかけます。

人間より、虫や動物や鳥が劣っている?

男性よりも女性はダメなの?

人間や男性って、そんなにえらくて賢いものでしょうか?

政治や権力、生きること、言葉の世界、人間になること―だけがわたしたちにとっての真実の生なのかしら―

そうなんですか?

はてさて―

ねぇ みなさん―

さてはて―むにゃむにゃ・・・☆

☆「火の鳥」は燃えている―生命体の温度―太陽、このエロスの源
永遠の命をもつ火の鳥は燃えています。
このことが有限の命をもった人間とはおおきく違います。
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体温が高く、つねに代謝する存在です。火の鳥が太陽系の星、「太陽」になぞらえられるゆえんです。そして人間は「地球」に関連づけられ、連鎖しています。

つまり、火の鳥と人間とのコミュニケーションを通じて、生命とは「太陽」と「地球」―その距離と関係性にあるということを手塚は示唆しているようです。人間は低体温(地球―惑星的なもの―生命の関係)なのですが、火の鳥は高体温(太陽―恒星的なもの―生命そのもの)です。

火の鳥は燃えています。(手塚の「太陽崇拝」―太陽の永遠、地球の有限)

それは、あたかも、人智ではうかがいしることのできない時間性そのもののように見えてしまいます☆

そしてこの漫画を読むと、人間の限界も思い知らされます。
人間のからだや温度は永遠の生命を生きるようにはできていません。もし、仮に人間のからだや温度が火の鳥のように、永遠の時を生きられるものだったら、生はどんなにか楽だったのでしょうか。人間は太陽を吸収するという、身体的な「地球」の環境連鎖の条件のなかでしか生きられない。

まったく、人間という「身体システム」の限界が思い知らされるようです☆

☆世界創造という神話―手塚、永井、宮崎、大友、庵野へとつづく神話世界―

「火の鳥」の物語世界には世界創造という神話的なテーゼが散見されます。

手塚は火の鳥において、生物―世界がどうつくられるのか?―というその神話的プロセスを軽やかでハイブロウな解釈とギャグをかましながら、明らかにしています。このハイブロウな解釈とギャグは「ブッダ」でもそうですが、賛否両論あります。でも、そういった、普通に生きていたら、なかなか入りにくい世界の間口を広げるという意味でいいんじゃないかなぁ~と思います。なんにも触れず、なんにも知らないよりかは、たとえ曲解解釈であっても、ハイブロウなギャグ交じりであっても、なんか触れた方がいいとボクは思う。(まぁ それも手塚に「毒されて」いるからかもしれませんけれども―(笑))

☆その4へつづく―
by tomozumi0032 | 2009-12-20 00:01 | 手塚 治虫
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