火の鳥2

☆その1へもどる―

☆宇宙生命―コスモゾーン
a0065481_18352749.jpg

☆宇宙生命―コスモゾーン―を語る火の鳥(「火の鳥」未来編より)


「時間と空間を自由に行き来する物語を、物語のままに描ききれたまんが家は、かつて日本には生まれなかった。-略―

手塚治虫はいったいどこまで高みに昇れば気がすむのだろうか!

それも、手塚はその視点を高みに移せば移すほど、達観というある種のボケを獲得することを拒否し、ますます衆生の物語へ手をさしのべて、安易な救済を与えようとはしない。その徹底した「外部精神」。そして魂の成人でなければほどこし得ない「優しさ」―略―

われわれはわれわれ自身をどうすることもできない。

だからこそ、その心理を生まれながらに感得していた手塚治虫は、可能なかぎり高みから鳥瞰する物語の創造機械になり切った。

そして、このような物語のことを、かつては哲学小説ないし教養小説と呼んだのである。文学畑で手塚治虫と同様の成果をおさめた唯一の人物は、おそらく宮沢賢治だけだったと思う」
   「漫画と人生」(「時空から幽冥へ―火の鳥の飛翔に寄せて」)
                       荒俣 宏


☆はたして死なないということが善いことなのだろうか?
えっと・・・まずはじめに、少し遠くからはじめましょう。ボクの観察では、おしなべて、わたしたち現代人は「近視眼」です。つまり、現代人は近くのことしかわからない人たちです。かつて、生に対する諦念をいさぎよしとし、さまざまな遠くのことをいろいろ考えたり、思いを馳せたり、想像したり、実感した時間が人間にはありましたが、現代人はそうではありません。そして、現代社会を生きる日本人はそうじゃないですね。よくよく、みなさん、ご承知のように、ね。とくに現代日本の若者は近くはよくわかるけれども、遠くはまったくわからない。どうしてかといえば、簡単です。近くは「利益」に結びつき、遠くは「利益」に結びつかないからです。近くは「生命」に近いのですが、遠くは「茫漠」としており、「生命」から離れて、雲をつかむような感じがしてしまうからです。でも、わたしたちが近くばかり眺め、「近視眼」ばかりになることはよくない。「ポストモダン化」して、「女性化」して、「均質交換化―フラット化―」して、その均質交換のあげくに「閉塞化」してしまった日本社会のひとつのよくない点は、この「近視眼」のなかにあるとボクは考えます。(もちろん、いささか古いようですが、セックスという「客体―身体」からネットに至る「客体―自我」までの「商品としてのわたし」の「均質交換化」もよくない。どうしてかといえば、「違い」がこそわたしたちを活気づけるからです。そしてマルクス流の「交換の原理」でいえば、「違い」―というのは最後には交換できないもの、交換不可能性を受け取りあうという秘儀的なコミュニケーションによってのみ定義づけられます。わたしたちは交換可能性―貨幣、快楽、性、ファッション、意味、価値のみを前提にしているわけではない。そうでないもの、すなわち、非―貨幣、不快、非―性、アンチファッション、無意味、無価値のなかに貨幣や快楽や意味や価値を定義づけてゆくことによってのみ、自らを引き受けることができる―つまり、自分が生きていると感じることができます。どうしてかといえば、わたしたちが生きていると感じることは、わたしたちがわたしたち自身を価値付け、意味づけ、貨幣や賭け金とすることと密接に関わっているからです。そしてもし仮に、たとえば、大塚英志や宮台真司や東浩樹が言うように、交換可能性によって、すべてが交換されてしまうのだとしたら、ひどく退屈な社会―シュミラルクルな退屈なグローバル化が拡がるのではないでしょうか?当たり前のことですが、わたしたちはけしてすべてを交換することはできません。すべてを「言葉」や「記号」にはおきかえられはしない。この問題はグローバル化とローカル化、市場と個人といったおおきい問題にも敷衍されうる問題です、わたしたちはどこまでグローバル化され、市場化されるのか、日本人として、なにを、どのように、いかにして交換するのか?―その場合なにを得て、なにを失うのか?、なにを交換することができて、なにを交換することができないのだろう?―)

そして、この「近視眼的目」(わたしたちは、現在、「宇宙」を失って、「社会」のなかにいます。「非―言葉」を失って、「言葉」のなかにいます)からいうと、どういうことが悪いことなんでしょうか?簡単です。悪は「死ぬ」ことや「死を連想させること」です。それでは善いこととはなんでしょうか?これも簡単です。「生きること」や「生を連想させること」です。それではもし人間が永遠の命や不死を手に入れたのだとしたら、それははたして人間にとって、善いことなのでしょうか?-それを手塚はこの「火の鳥」という「宇宙生命の目―つまり、コスモゾーンEYE」のなかで問いかけます。結論からいえば、不死は人間を火の鳥に近づけます。(火の鳥「未来編」の山之内)「こちら側の存在」(社会―言葉)ではなくて、「あちら側の存在」(宇宙―非言葉)へとかえます。そして科学的な、神話的な、宗教的な―膨大な時間のなかにはいります。時間を超越した宇宙生命体―それはある意味では残酷で、のっぺりとして、孤独と、生きることの辛さのなかで過ぎてしまう。時間の果て、人間文明の終わり―そして、誰もいなくなります。ただただ荒涼とした地球が残って、そこでひとり、不死を生きなければならないのだとしたら、生命はあまりに過酷です。生命は死ぬからこそ、美しい―生きつづけることは善いことではない。そしてそれは生死をめぐるひとつの究極的な問いかけに見えます。

生きるということ、死ぬということ。
生命というひとつの現象。

それはいったいなんなのか?なぜ、わたしたち人間のみならず、生物は生き、満足や快楽をもとめ、欲望という囚われを昇華させることを望み、そして死んでゆくのか?それは言葉の体験ではなくって、言葉以上のものを体験することなのだろうか?命とはなんなんだろう?時間とはなんなのか?空間とはなに?そして―この膨大な生物家族のなかに暮らすひとつの種「人間」とはなにか?

おそらく未来永劫、人智でははかりしれないような問いに手塚は壮大な転生の物語を利用して挑んでいます。膨大で、ながいながい時空間のテーマ―そこを軽やかに飛翔する「火の鳥」という宇宙生命体の創造―神様といわれるゆえんでしょう☆
a0065481_1972635.jpg

☆虫と人間の生命の差について語る火の鳥(「火の鳥」黎明編より)


☆「女」としての火の鳥―フェミニンな宇宙生命体
「火の鳥」は永遠の生命をもった宇宙生命体ですが、この生命体は男性的なものではなくて、女性的なものとして描かれています。つまり宇宙生命体は「女性的―フェミニン―」なものです。このことは手塚の生命観を見るうえできわめて示唆的だと思われます。

☆その3へつづく―

[PR]
by tomozumi0032 | 2009-12-20 00:02 | 手塚 治虫
←menu