MDMA大全―違法ドラッグ・エクスタシーの全知識4

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☆西欧近代のおわり(肉食の時代から草食の時代へと変転するパラダイムシフト)
「生物―人類史」というよりおおきな枠組みから眺めてみれば、わたしたちは非常に長いあいだ法と秩序の「社会性」ではなく、より広大なシステムである「儀礼性」のなかに生きていました。だから実はわたしたちの生活において、「社会性」よりも「儀礼性」のほうがより親しい感覚でもある。社会学者ボードリヤールから一文を引用して見てみましょう。

「一般的に「儀礼性」は「社会性」よりはるかにすぐれた形態である。

「社会性」は、人間が相互につくりあげた機構と交換のあたらしい形式にほかならないが、それは誘惑的ではない。

「儀礼性」はもっと広大なシステムであって、生きているものも、死者も、動物もふくみ、「自然」さえも排除しない。自然がもっている周期的なプロセス、反復、破局は、自発的に儀礼的などの役割を演じている。

これに対して、「社会性」は非常に貧しいもののように見える。
社会性が、法の支配下で連帯させるのはひとつの種(人類)にすぎない(それさえも不確かである)。

「儀礼性」は、法によってではなく、規則と無限なアナロジーの運動とに、サイクル的な機構と普遍的な交換の形式を維持することによって成功する。この形式の維持は法と社会的なものには不可能である。」
               「誘惑の戦略」P120


ボードリヤールの指摘するように、かつてわたしたちは「儀礼性」のなかで、本当の「エコロジー」を完成させていたように考えられます。おそらくそのころは、意識していなかったにせよ、植物・動物・人類をふくむ生命は循環的な周期プロセスのなかにおり、すべてはこの周期プロセスに収斂されると考えられていた。(特に、一神教ではない地域や日本を含む東洋でこの傾向は強い)その周期プロセスを体感する方法のひとつとして、「植物の力」―すなわち今でいうところの「麻薬」があった。それは世界との危険であやうい、だからこそ生命のエネルギーに満ちた過剰な関係をエロティックに体感させてくれたはずです。(したがって、この論理でいけば、麻薬」はエロティックなエコロジーである―ということです)現代人の衰退した生命にたいするアンチテーゼとして、「麻薬」はいまもなお機能しているといった面もあるでしょう。

西欧近代の合理主義的な見地からの見解を退け、より正確にいえば、「麻薬」は「退廃的」なものではなくて、「退行的」なものです。それは「植物の力」によって、「植物」になることを意味しています。そして「植物人間」となった人間は植物や無機物やモノといった一般的には語らないもの、言葉をもたないものと別の言語で通じ合うことができます。植物の生、「べつの在り方」―オルタネティブの生を理解すること。個人的に考える「エコロジー」とはこういったこと―つまり、声なき対象の声を聴くことという「退行」と結びついています。しかし、この「退行」は非可逆性を旨とするこれまでの資本幻想―すなわちストックや進化論的夢、よりよい明日を目指すこと―と相容れないものでもありました。

「退行」とは「上」ではなく「下」へと向かう運動です。そして、「エコロジー」とは人類が「上昇」することではなく、「下降」せざるをえない時代の要請です。あきらかに、わたしたちは資本幻想の終わり、西欧社会の衰退を生きているのです。(「法的な社会性」のゆるみではなくて、わたしたちを取り巻く「法的な社会性」への疑い、そして失われた「儀礼性」の部分的な復権)

この150年ものあいだ、世界は西欧近代の暴力的で強引ともいえるような合理的な価値の押し付け―肉食化のなかを生きてきました。それは精密化する技術に対する信仰と同時に「植物の力」に対する抑圧を生んできたように見えます。個性にもとづいたみずからの積極性、アグレシヴィティを開放し、それを力にすること、個への絶対信仰、わけることによって混同のないクリアーな状態を理想とすること、そして分割し線をひいて概念化してしまうこと、人間理性への信頼―こういった西欧近代はポストコロニアル運動の高まりやエコロジームーブメント、最先端科学、精神分析、民俗学や文化人類学、カウンター・サブカルチャーなどによって攻撃され、批判され、相対化されていることを今日を生きるわたしたちは知っています。合理主義的なものの価値はいまやきわめて危うい根拠によってしか支えられておらず、わたしたちの文明社会は文明的とはこれまで見なされてこなかったもの、植民地主義的なもの、非合理なもの―頭ではあまり理解したり把握したりすることのできないもの、言葉におきかえがたいもの、歴史にならないもの、ストックされないもの、消えてゆくもの、美しいもの、より複雑でとらえがたいもの、移り変わるもの、瞬間的なもの、女性の力、水やエロス、エコロジーのエネルギーに今日的な価値を見出しています。たしかに合理的で理性的な説明は人を納得させる力があります。そのときはそう思うかも知れません。でも、それはかつてのような全体性を示すものではなくなっています。そういった説明は西欧近代の、ひいては知や教養、歴史主義―といった「西欧化した権威」のひとつとしか見えない。今、そういった権威が瓦解して、知や教養が軽んじられ、本が売れず、大学が人物製造装置となり、大衆化して、女性化するのを見るのは楽しいことです。(西欧化の終焉とポストコロニアル化、価値の相対性の重視)わたしたちはおそらくこれまで知や教養の中に見出そうとしてきたものを性の違い(SEX)やエロス、麻薬、消費、西欧ではなく日本、遠くのものではなく近くのもの、アンチストックとコミュニケーションテクノロジーとに置きかえようとするパラダイムの変転のなかにいるのでしょう。今、この変転を前にして、さまざまな価値が大きく揺らぎ、あやふやで不安定なのは当然なのではないでしょうか。

もういちど繰り返します。
麻薬に代表される「植物の力」は儀礼的なものを復権させ、わたしたちをより広大なシステムへ導くものです。「肉食と法の世界」、西欧近代はこの魅惑的な力を規制することができるのでしょうか?わたしたちは全体的な宇宙を希求する生き物であり、近代的理性はいまや風前のともし火にすぎません。近代理性の暴力がもたらした地球的な危機、すなわち「エコロジー社会」を生きるわたしたちは「植物の力化」、「植物人間化」を避けることはできない。わたしたちは「草食化」しなければならず、それは「地球」の要請でもあります。

全世界的なドラッグの蔓延は肉食文明の終焉を示しているようにボクには思われてなりません。



☆まとめ―時代のドラッグ化
おそらく、この論文の弱点は「合成麻薬」と「原麻薬―植物の力」を混同して語ったことにあります。それらがうまく整理してわけられずに、混在してしまった。そこに論旨の弱さを感じます。ですが、個人的には、「まぁ 言いたいことはいったぞ」―という気分にもなるのです。もう少し明晰に、きちんとわけて語れればもう少しクリアーに理解は深まったかもしれませんが、しかたありません。不完全で未完成な論述におつき合いいただいた皆様ありがとうございました。でもなにかしらは感じていただければ幸いです。ただひとつ言えることは、ファッション同様、都市とテクノロジー化著しい現代では麻薬もまた「デザイナーズ化」しているということであって、原初的なものは見失われがちになっています。

良いか悪い判断はできませんが、現代都市に生きるわたしたちはますます実質性の乏しい、身近な感覚の、「デザイナーズ化」された時空間をさまようようになっています。それはわたしたちが文化とよぶところのいずれの表象においても、やむことのない文化圧力を形成しているようです。

そうしてこういった「デザイナーズ化」された現代都市の「遊び感覚」あふれる生活もまた「合成麻薬化」しているといえます。前述の社会学者ボードリヤールの興味深い指摘をみてみましょう。

「つまり、「遊び感覚」のものはスーパーで洗剤のブランドを「選択」することまで含めて、いたるところにある。強制しなくてもひとびとは麻薬と向精神薬の世界に加わる。この世界もまた、感覚的なキーの操作、ニューロン的な計器板にほかならないという意味で「遊び感覚」である。コンピューターゲームは、甘美な麻薬であり、おなじやり方、おなじ夢遊病的放心状態、おなじ感覚的快感によってなされる。」
                     「誘惑の技法」P215


現代社会の生の営みは麻薬的なものと近い位置にあって、その親和性が高いことがわかると思います。いずれにせよ、「合成」「非合成」を問わず、これからますます麻薬は現代社会にとって、避けて通れない問題となるでしょう。最後にミシェル・オートフイユの興味深い問いかけを引用して終わることにしたいと思います。

「ドラッグが提起する緊急課題は、われわれの社会が充分に答えてこなかった問題を執拗に問いかけてくる。それは、ドラッグの消費をどのように取り扱い、どのように管理するのかということである。

すべてのドラッグの消費者を、社会を危険におとしいれる者や、法律違反者とみるのはいまでも適切だろうか?自分の体と心を自分の思うようにするという基本的な権利に、社会は介入しなければならないのか?

しかし、あきらかに問題となるのは、ヒトは意見を持ち選択できるために必要な情報を得ている限りにおいて、自分の生命と運命に責任をもち、みずから管理できるか否かである。

われわれの社会はヒトの知性に賭けるか、それともヒトは幼稚な生き物だから管理しなければならないという立場をとり続けるのだろうか?

ドラッグは、このような難しい問題、つねに新しく問い直さなければならない問題、自由とはなにかという問題について、議論の扉を開いた。もしも、自由とは人々が従属するものを選択できる可能性であるとわれわれが考えるならば、ドラッグの使用というテーマに関するかぎり、その選択の可能性はないことを認めなければならない。」
                    「合成ドラッグ」P127



おしまい☆

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by tomozumi0032 | 2009-09-01 23:25 | MDMA
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