MDMA大全―違法ドラッグ・エクスタシーの全知識3

☆その2へもどる― 

はじめてのLSD体験を語るジョンレノン☆

☆ドラッグデザイナーは未来のアーチスト?
フランスの研究者ミシェル オートフィーユ氏の意見にこんな意見があります。以下、興味深い項目をいくつか、引用してみます。(ちなみにここでいわれるドラッグとは合成ドラッグ、向精神薬の意味合いが強いものですが―)

「ドラッグの売買は将来有望であろうと誰もがかんがえている。一方で消費者の需要があるので、消費人口が広がらないはずはない。そしてもう一方では、ドラッグの供給がある。ドラッグはますます変化し、作用は正確になり、副作用がないものがあらわれる。またドラッグがいっそう入手しやすくなり、比較的低価格となる。ニーズに見合った供給があるということは商売繁盛の原則である(「合成ドラッグ」P122)

ここで、オートフィーユ氏はドラッグがどんなに規制を厳しくしてもその需要があるかぎり、けしてなくならないこと、ドラッグそれ自体のより安全で的確な効果への変化を示唆しています。もしドラッグそのものが正確な快楽の作用をもち、なんらかの副作用をももたないものとなった場合、それはどのような意味で危険なものなのでしょうか?さらに、つづく文章のなかで、こんなことも書いています。

「(前述したとおり、MDMAの再発見者のアメリカの研究者)アレキサンダー シュルギンやD・ニコラスのような科学者がやってきたことや、リカエムやエロウィドのようなインターネットサイト上で得られる情報を見ると、薬理化学が次第に美や芸術の想像に似た考えをもつようになり、化合物を美的、芸術的に提示する傾向が始まっている。これらの研究者たちはファッションデザイナーや映画監督が自分たちの作品を披露するように、自分がつくった薬を披露する」(「合成ドラッグ」P123)

時代の先端を切り開く研究者がいまや、アーチスト、ファッションデザイナーや映画監督と似て、「芸術家」であり、ある感覚世界のデザインをしているという認識がここにあるのでしょう。こうなるともはやドラッグはひとつの世界認識の手段だといえそうです。

いまでもドラッグと取り締まりとをめぐっては、「いたちごっこ」の様相を呈していますが、これからなお細分化され、洗練をきわめ、より作用の正確で、より安全な、そしてまだ法的な取り締まりを受けない新しいドラッグが社会にでまわり、人々は束の間の別の世界、内面世界をかいま見ることになりそうです。

そうなった時、法的規制は有効に機能するのでしょうか?

「毒にも薬にもならない」―という言葉があるように、わたしたちにとっての薬とは毒であることをもう一度考え直してみる必要があるのだと思います。

☆アメリカのドラッグをめぐる法律のずさんさ―ドラッグイメージをめぐるうさんくささ
「ヘロイン」「コカイン」「マリファナ」「LSD」「覚せい剤」-その他どんな違法ドラッグも、最初から世界の法律で禁止されていたわけではありません。そしてあたりまえですが、ドラッグは今のような「バッドイメージ」として人口に膾炙されていたわけでもない。社会に自然などというものはなく、誰かが戦略的にふりまいたイメージのなかにわたしたちのイメージはとらわれてしまいます。そしてそれはイメージである以上、イマジネーションによって、助長されてゆくものでしょう。だから、ドラッグの問題のひとつはそれがよいものにせよ、わるいものにせよ、こういったイメージが連鎖の中で増殖し、ふくらんでゆくというそのイメージ増殖のプロセスの中にあるようにさえ、思われてしまいます。(現実問題としてドラッグをするにせよ、しないにせよ、「コトバというドラッグ」(現実のおきかえ)を使ってしかドラッグイメージを構成できないのは人間と言語の関係にまつわる問題ではないのでしょうか?)

ここにアートやファッション、映画との相関関係があるように見えます。現代社会を生きるわたしたちのもつイメージとは一体なんなのか?それは連鎖によって、増殖し、ある中空の、浮遊した、あってないようなコトバのエネルギーを獲得してゆくプロセスなのだろうか?なぜ、人は現実をイメージしたり、イマジネートしたりするのだろうか?どうして、肯定するにせよ否定するにせよ、それを肯定や否定のエネルギーへと転化するのか?いったいリアリティとはなんなんだろう?コトバによって得られるものだというのだろうか?それならば、現実はコトバそのものなのか?そして、わたしたちはイメージ、コトバから逃れて、リアルな世界そのものに触れることはできないのだろうか・・・・・・・。こう考えてみると、サルトルが描いた「実存的嘔吐」とはいまだに続く問題だと思います。

さて、ドラッグに対するイメージを決定的な「悪」としてふりまいたのは、1960年代後半、反社会的な若者文化を攻撃することによって、サイレントマジョリティーに支持された「ニクソン大統領」の時代にさかのぼります。(ドラッグウォーのはじまり)

そのニクソン大統領とはどのような時代背景にどのような施策をとった大統領なのか?-こちらを見てみましょう。

ドルと金の交換停止(ニクソンショック)やスペースシャトル計画、中華人民共和国との国交樹立、ベトナム戦争の締結と現代社会へとつながる筋道を整備しましたが、1973年麻薬取締り局DEAを設置し、麻薬戦争の口火を切って落とした大統領でもあります。

ニクソン大統領の施策の特徴は、反体制―若者文化、カウンターカルチャームーブメントのうねりと連動しています。このムーブメントはいままであまり注目されていなかったモノ、下にあったモノ、とるにたりないとされていたモノ―に強い光をあてました。(「黒人」、「女性」、「子供」、「反戦」、「東洋思想」、そして「ドラッグ」)その結果、当然、それは強烈な作用と反作用をともないました。現代社会にもつうじているとおぼしき矛盾した二つのパワー―かたや「社会の推進力」、そしてかたや「社会の混乱」。

そういった混乱状況のなかでニクソン大統領は「法と秩序の回復」をとなえ、カウンターカルチャーによって、混迷し、不安感をつのらせたアメリカ社会の立てなおしをはかりました。ヒッピー文化やマイノリティ文化を攻撃し、「サイレント マジョリティー」といわれる保守層に訴えかけることによって、「平和と秩序」を回復させ、「ベトナム戦争」を軟着陸させようとした。そしてそのさいに格好の標的(ブッシュの「悪の枢軸」発言もそうだけれども、アメリカはこういった標的をつくるのが好きです)となったのが、ドラッグ―麻薬なようにも考えられます。

「禁酒法よりもひどい」-と称されたニクソンのドラッグ政策は、からだに対する「ドラッグ」の効果そのものというよりは、社会的なメッセージの方により大きく注目したように見えます。(そうでなかったらマリファナがヘロインと同じ危険度をもつ有害麻薬として、厳しく取り締まられた理由がわからない)ニクソンにとって、そしてその時代の保守派にとって、ほんとうに警戒しなければならない問題は「ドラッグ」そのものではなく、「ドラッグ」というコトバにまつわるある種の雰囲気、イメージです。そしてそれはその時代を生きていたアメリカ人にとっては、かなり差しせまった問題でもありました。雰囲気やイメージ(「イマジン」)が体制を瓦解させかねないことを大人がはじめて知ったとでもいえるのでしょうか。この雰囲気、イメージはいまの日本でも社会的に注目されるもの―そしてそれは穏健でまっとうとされる「平和主義的」で「現状維持的」な「共同体倫理」にもとるものとして現代日本を生きるわたしたちの神経をアンヴィヴァレントに刺激するものでもある。個人的には、これらはそのルーツの部分で、ニクソンがとった政策、すなわち「ベトナム戦争締結」と「ドラッグに対する取締り強化」というアメと鞭のあいだでアメリカの世論を軟着陸させてみせた 政策の微妙に「矛盾したあり方」につながっているように感じられます。現代社会の「夢」と「動揺」はおそらく近い場所にあるのでしょう。

そして、すくなくとも、じっさいのところ、わたしたち日本の社会において、「ドラッグ」そのものが問題になっているのか?―と問うことはできるでしょう。いろいろ見わたしたところで、「のりぴ~事件」にしても、「押尾事件」にしても、現代日本のマスメディアにおいて、ソフトな「ドラッグの雰囲気やイメージ」ではなくて、ハードな「ドラッグそのもの」が問題となっている記事や報道を見たことがない。まったく、アイロニーを忘れて、法規制をよく守るお利口ちゃまの日本人の「ニクソン主義」ぶりは素晴らしすぎて、目に余るほどです。

マスメディアの報道姿勢は、かなり「雰囲気・イメージ的」、ドラッグそのものへの言及を欠いて「周辺的」、そしてなにより「封建主義的」―「情報の一元管理的」すなわち「中央集権的」で「画一的」な一個人の快楽にもとづいた「堕落イメージ」に記事がかたよりすぎているようにみえます。これは、はっきりいえば真実をつつみかくさず透明にするというマスメディアそのものの「怠慢」でもあるし、ひいては日本人ひとりひとりの民度の低さなんじゃないかなぁ~と思いました。カレル・ヴァン・ウォルフレン風にいえば、こういった思考や神経のあり方が「人間を幸福にしない日本というシステム」そのものなんじゃないのでしょうか。因果関係の図式が単純であり、解釈は幼稚で、あまりに思考が不在すぎるのではないだろうか。

日本のマスメディアはこういう風―つまり、アメリカの言論奴隷、国際社会をおそれて縮こまり、保護者アメリカの「愛人・子供」風の幼稚報道―にしか報道できないのかしらん・・・(「属国イデオローグ」)市民をふくむ日本社会が日本独自の寛容さをもてづに、アメリカ的で画一的な思考トーンで彩られた戦後民主主義、官僚主義的な見方をいまだにつづけてるばかりの姿勢にはおおいに不満がのこるところです。

個人的には、日本人だって「麻薬」に対する独自の見解や価値、寛容さをうち出したっていいんじゃないか―と思います


☆テクノロジー社会が「セックス」と「麻薬」を氾濫させたこと
かつて、テクノロジーがこうも社会の中心ではなく、わたしたち人類がいまよりず~っと寛容だったころ、人は「罪を憎んで、人を憎まず」といいました。人は悪くない。罪が悪い。あるいは「疑わしきは罰せず」といいました。疑わしい、けれども罰にはしない。こういった共同体レベルでのあたたかな寛容さはどこへやら―「冷戦」や「オウムサリン事件」を経て「9・11」を体験し、テクノロジーと死が直結していることを知ったいまでは、罪は「さらしもの」の罰をくわえられるようになってしまった―これは「知性の怠慢」と「テクノロジーの勝利」以外のなにものでもないとボクは考えます。だって、本当は「ジャンキー」は他人事じゃないでしょ―だれだって、あなただって、「ジャンキー」になりうる可能性はある。それなのに、いままで、おだてていた芸能人を掌を返すように「さらしもの」にして、それを「罪と罰」の論法で処理してパロディとしてよろこんでいる「いい子ちゃん」ぶったわたしたち観客も観客です。これらはすべて「衆愚」の、「女性化」し、「共同体的な倫理」も、「モラル」も、本質的な「星座」と「象徴界」も欠いて、よろこんでいる「テクノロジー民主主義」社会のおろかさ以外のなにものでもないと頭半分では考える。―だけれども、そういった方向にいまや社会全体が向かってしまっています。人類と古いつきあいをもっていた植物を「麻薬」として排除してしまう価値を見つけたのも、「セックス」の快楽を抜き取って、増殖させ、社会に蔓延させたのも、おなじ社会や価値のあり方と関連しています。つまり資本主義であり、「道具」と「テクノロジー」の社会です。上述した「ニクソン主義」のところで見たように、「麻薬」はこの社会体制、価値のあり方の中で名づけられ、排撃されるものになった。本質的にはそれが「絶対悪」なのかどうかは誰にもわからないことです。しょせん、わたしたちは法や社会に裁かれるにすぎません。でも、わたしたちはより大きなレベル、より大きな次元においては、けして裁かれたり、善悪を評価されることはありえないことなのでしょう。

☆その4へつづく
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by tomozumi0032 | 2009-09-01 23:34 | MDMA
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