MDMA大全―違法ドラッグ・エクスタシーの全知識2

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☆MDMA GENERATION
60年代アメリカのLSDが代表的ですが、現代社会において、あるていど以上ひろまり、ポピュラリティーを獲得したドラッグはおしなべて世代の刻印、ジェネレーション的な感覚に強い影響をおよぼしています。

それは新感覚としてもてはやされる、さまざまなファッション―芸術―音楽表現につながっています。たとえば、曲線を多用したテキスタイルデザインやOP柄、蛍光色といった幻覚的なファッション感覚、あるいはOP ARTや自然主義的傾向の強いアールヌーボーのとらえなおし、それからポップ アートにみられるような芸術感覚、そしてジミ・ヘンドリックスやTHE DOORSやジャニス ジョプリンに代表される黒人・インディアンといった辺境のとらえなおし、「辺境と幻覚との融合」としてのカウンターカルチャー、サイケデリックミュージックなどは一大ムーブメントを巻き起こして、今日のわたしたちの文化的背景となっていることはよく知られています。これらの背後にLSDという大衆に広まったドラッグの力を忘れるわけにはいきません。こういった文化は、LSDと関係があるというレベルにとどまるものではなく、文化そのものがLSD体験の深い刻印を刻んでいると見るべきでしょう。

そして、MDMAもまたアングロサクソン大衆文化を先頭にして、ポップカルチャーを中心とした現代の文化背景におおきな影響を及ぼしていると考えられます。

わたしたちは平板化を旨とする資本主義社会に生きている以上、いずれにせよわたしたちの文化は有形無形や好悪を問わずとして、伝染の社会回路のなかを生きています。どこかはどこかに伝染し、感染し、そして表現され、表象化され、商品となってしまう。MDMAもまたそういった例に漏れません。中性的でアンドロギュノスなファッションデザインやインスタレーションや映像表現における「無国籍共感」の芸術、あるいは純粋、ピュアな「快楽」が着目されてポイントとなるエレクトリックなエクスタシーサウンドなどなど、現代社会をにぎわせるおおくの表現媒体のなかにはMDMA的なもの、エクスタシー的なものが内包されています。でも、これってすこし考えてみれば当たり前ですよね―だって、それだけおおくの人がドラッグ体験をし、感覚的な影響をうけているのだから、その感覚はどこかで表現に反映されてしまう。MDMAを摂取しない日本のミュージシャンにしてもしかり―MDMAを摂取した感覚の欧米のファッション、音楽、美術に伝染し、感染し、影響されるのだから、それはそうです。「「時代」や「世代」というマスカルチャー、大衆文化の影響を受けないわけがない」」―ちょっ普通に考えれば、そう思います。テクノロジーに浸り、テクノ・レイブカルチャーの影響をうけたファッション・音楽・芸術にかこまれて育った1970年代以降の世代である、わたしたちは「MDMA GENERATION」だといえそうです。

☆植物の力の喪失と合成麻薬の問題点
最近メキシコでの麻薬戦争がよく報道されています。

どのようなもの、たとえそれが無害なものであっても、禁酒法よろしく禁止された対象は地下にもぐって、組織を形成し、法権力と哀しい抗争をくりひろげるものです。現在の法権力や国家権力に包囲されたわたしたちはつい100年前まで、現在麻薬や大麻とよばれるものが「天からの贈り物」といわれ、生活にひろく親しんでいたことを完全な忘却に葬り去っているようです。人類史的に見れば、麻薬の歴史5000年、麻薬中毒の歴史100年といわれるように、人間はついこのあいだまで、麻薬による幸福を追求し、世界との「シンクロ二ティ」を味わってきました。現代人は「麻薬」―これは植物性の幻覚作用をもたらす薬、つまり「植物の力」ということですが―が非常にながいあいだ人類と関係をもってきたことを忘れています。

そしてそれが人類にとって、動植物をふくめた生命連鎖のなかで、「生命」というものを教えてくれた。「植物の力」はわたしたちが現在考えているように、法や権力、そしてなにより「科学」によって飼いならされるものではなかった。それはわたしたちを大きな宇宙へと誘う窓口でもあったのです。そしてわたしたちはその宇宙にたいして「敬虔」になることができた。このことがこそ「エコロジー」ということではないでしょうか?現在、欧米諸国や民主党がおしすすめているような、意識や知覚や企画による「数値目標」としてのエコロジーが、はたしてどこまで本当のエコロジーだといえるのか―おおいに疑問が残るところです。

麻薬もまた問題です。
現代社会において、麻薬は敬虔な神秘を欠いて、平板な効用によって使用されるモノとなってしまったからです。MDMAもそうですが、麻薬は「天からの贈り物」といった自然とのつながりを失い、「植物の力」といった原始的な力を失った。それはいまや、誰もが知るように、「成分の抜き取り」、「抽出」、「合成操作」、そして「効き目」―効果―とその精神デザインのソフィスティケーションといった化学式のレベルに堕しています。そしてだからこそGHBやケタミンといった「強姦薬」―レイプを容易にし、記憶を飛ばすことのできるドラッグ―やスポーツの「ドーピング」やメタンフェタミン―覚せい剤―やポパーズのような勃起作用を長持ちさせることができる「セックスドラッグ」といった薬物の「快楽の過剰濫用」―すなわち想像や妄想への過剰な耽溺、象徴界の凋落―を生み出しているように思います。

問題は麻薬そのものではなく、麻薬にはらまれた「過剰濫用」や「依存」の関係が引き起こす関係性にあります。そして残念なことに、現代社会の貧しさはこの関係性を「補強」する土壌をととのえています。(「押尾事件」も「のりぴ~事件」もこういった現代社会の貧しさ―共同体の崩壊と象徴界の凋落、貧しい意味しか持たなくなった孤独を背景としていることは確かです)

さらに、この関係性はかならずしも平等なものではなく、人間が「依存」しやすく弱い生き物である以上、そういった関係に容易に陥りやすい。(ここには、もちろん例外はあります。アーチストやミュージシャン、ティモシーリアリーやジョン・C・リリーといった精神先導者、あるいは宗教者、それから、ウィリアム・バロウズのような人たちもいるでしょう)でも大多数に人間にとって、おそらくドラッグ使用の第一の目的は気晴らしとストレス解消、気持ちよく、自分が肯定されていると感じられる「忘却」と「快楽」の時間をすごしたいことにあるようです。資本主義に生きる現代人は「快楽原則」にしたがって、個人の快楽は社会に容認されていますので、わたしたちは誰もが「薬物依存」へ陥る危険を孕んでいると見るべきだと思います。

さらにいえば、現代医療の問題のひとつとして、「薬漬け医療」があげられます。「薬漬け医療」とは別の言い方をすれば、すこし悪い表現ですが、「合法的ジャンキー」のようにさえ思われます。「生命を薬の力によってのばすこと」―これがはたしてよいことなのやら。そうして延ばした平均寿命は「若い生命」との生命の代謝を不健全なものにしているようにも見えます。現状肯定すること、死を遠ざけること、生きること。それはよいことだけれども、度がすぎると醜悪です。意地の悪い意見でしょうが、現代人は、潜在的なものにせよ、ウィリアムバロウズの言ったように「だれもみなジャンキー」なのかもしれません。

☆資本主義の快楽とドラッグ問題
上述のように、現在のドラッグはその「神秘性」を欠いて、化学式の調合レベルとなった以上、やがて、そう遠くない将来、人間はそのデザインされた化学式の調合を「管理」と「安全」のなかで試すこととなるように思います。

このことは以前からSFの世界で描かれてきた光景でもあります。

手塚治虫の「火の鳥」未来編にでてきた幻覚をひきおこす不定形生物「ムーピー」やPKディックの「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」に登場した「ムードオルガン」、ハックスレーの「素晴らしき新世界」の聖水「ソーマ」、キューブリックの「時計仕掛けのオレンジ」の「ミルク」、あるいはタニス リーの「バイティング・ザ・サン」で描かれた「エクスタシー・ピル」などがそうです。

そして、現実社会において、これといった副作用をもたず、身体の官能的な快楽に奉仕するMDMAの登場はまさにその具現化のようにも思われます。いわゆる余暇はドラッグのなかで、「快楽的」に「気持ちよく過ごすべき」だ―ということをMDMAは暗に示唆しています。

わたしたちの資本は正しく、人生は美しい。
対立軸を欠いた資本の絶対肯定。
美の賛美。
地球とエコロジーの崇拝。


でも、でも老婆心ながらも―そこに精神の深みがあるのかと考えてしまいます。リアリーがその著書の中で述べたような方程式がはたして成り立つのか?合成麻薬のような「想像界の絶対」というのはこの「象徴界の萎えてしまった社会」の「快楽」と「想像力」という堕落をよりおしすすめるのだろうか?

なにより、ある方向性だけの意識がただしい意識なのだろうか?想像界に根ざすだけに「幼稚」な資本意識は人類を代表するものなのか?こういった「幼稚」な傲慢はいずれ象徴界の「テロ」をひきおこす要因となるのではないだろうか?

その時にこそ、資本主義社会に生きるわたしたちは資本にモチベートされ、「快楽原則」に満ちた日常に生きるわたしたち自身の愚かさを―みずからの快楽の代償を知るのでしょうね。欧米をふくめて、先進国を生きるわたしたちの意識は「幼稚な快楽」と「日常」の奴隷であって、「快楽と代償」という苦味を知ることは日常を生きている限り、難しいことなのかもしれません。

そうして、その「代償」を知らされたとき、衆愚に淫し、せいぜい愚かしくわめきちらして、理解することのできない他者「イスラム」を破壊してまわるといった低脳な幼稚さを見せつけることしかできない醜い超大国の「凶悪なモンスター」めいた姿は、いやなことですが、ちょうど自我にまつわる報復感情に基づいた死刑制度を野放しにする日本人の意識的鏡なのでしょうね。まったくどちらも国家権力―すなわち衆愚ということですね―は醜く、わたしたちの「愚かさ―豊かさでもあるでしょう―を補強」し、「感情を解放」するもののようです。

☆その3へつづく―
by tomozumi0032 | 2009-09-01 23:35 | MDMA
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