崖の上のポニョ

☆余裕の力量
いままで多くの話題作を送りだしてきたスタジオジブリ―宮崎駿だけあって、余裕の力量を感じさせる一作です。なにも考えずに、ただ見ていても綺麗で、楽しくて、胸躍るようなエンターテイメントの一作となっていて、頭のよい人でも悪い人でも、大人でも子供でも、男性でも女性でも、無差別に誰でも楽しめてしまう。(もっとも、無差別は文化―分化といってもいいかな―の敵ですから、文化的な人はあえて、宮崎をはずしたり、攻撃したりするかもしれませんけれども・・・)とはいえ、こういった誰でも楽しめる一作を描くのには相応の力量が必要ですが、非常に力強い力量で、余裕たっぷりに描いています。意味がわからない、物語がない、子供向けという批判もあるでしょうが、ここではそういった意味にとらわらず、物語にとらわれず、大人であることにとらわれず、この映画をすこしはなれた視点から見てみましょう。きっと、ただ見たというだけではわからない発見があると思います。
a0065481_18531619.jpg

☆子供であること―日本人であること―宮崎駿という日本人のアイデンティティ
宮崎はこの「崖の上のポニョ」の製作過程のなかで子供の目にこだわるということをいっています。これは表現上の手法にもあらわれ、「時代の流れに逆行」して、CGをつかわず、手作業を重視した表現手法を採用しています。いまどきのアニメーション―たとえばファッションデザイナーのPRADAやYMOの細野せんせ、それからジョンウーなど豪華なキャストが話題になったCGアニメ「エクス マキナ」が結局コンピューターカルチャーが問題視すると同様の問題意識によって、危機に陥る都市生命を描いてみせたのとは対照的に、このアニメをめぐる危機はどれも「自然主義的」なものです。たとえば、とつぜん訪れる台風や荒れ狂う海、ポニョが人間になれるか、なれないかという不安―などなど。(こういった表現手法と危機意識のあり方はアニメをめぐるなかなか面白いテーマですけれども、ここではおいておきましょう)子供であることと手書きであることは微妙に近い関係にあるようです。思い出してください!子供のころ、お絵かきといえば、コンピューターでするものではなく、リアリティを追求したり、写実として描いたりするわけでもなくって、ただ画用紙に色を塗りつけたり、モノや自然や動物や植物が心をもっていたりするものだったのではないでしょうか?子供であることは想像力の奔放さや自由、そしてわたしたちに眠る無限の可能性を意味しています。そして日本は司馬遼太郎がいっていたように、子供であることに聖性を見出し、特権化するという文化をもっていました。欧米社会とは違って、明治のむかしから日本人は子供になにかしらの聖性や大人にはない知恵というものを見ていたはずです。市場原理と資本主義の競争原理が作用し、差異を特権化した現在、わたしたちがなぜポニョを見るのか、宮崎駿をたてりまつりあげるのか―といえば、簡単にいえば、こういった失われつつある子供であること、日本人であることのアイデンティティとにかかわっているからだと思います。そして子供であるということはすなわち日本人であるということですから、大人になった日本人に対する暗黙の批判をそこに含んでいるということになります。子供であることをないがしろにして、日本は日本ではありえない―とアニメ界の老師たる宮崎駿の声が聞こえてきそうな気さえしてしまいます。そして、子供にこだわり続け、こういった批判意識を絶えずもちつづけたところに宮崎の宮崎たるゆえんがあるようにぼくは考えます。

☆女であること―少女であること―老人であること―マイノリティであること―刹那主義
「風の谷のナウシカ」以降―宮崎がこだわりつづけるのは、作家ルイスキャロルのように「女であること」と「少女であること」です。以前からその傾向はありましたが、「ハウル―」以後、飛躍的に強くなったことは「老人であること」であり、この映画でもそういった傾向は減るどころか、一層強調されています。これらを一言でいえば、現代社会の「マイノリティ」だということです。ぼくごときがいうまでもなく、現代社会では意地悪な見方をしなければ、女とマイノリティの社会進出は新しい知恵のあり方を告げていますし、皮肉っぽくいわなければ、老人はもうひとつの生のモデルを構築しています。男社会の迷妄と過去や歴史にこだわって、満足するようなあり方とはちがって、女性は今現在―すなわちPRESENTなあり方です。それはどうあってもPRESENTであり、「今ここ」であるということです。過去や歴史はそこでは表象のレベルにおきかえられて、表面的なものとして知覚され、展開する現在に登場します。このあり方がこそ宮崎アニメの根本であり、そのあり方それ自体が時代とシンクロニティしているのだとぼくは考えています。

すなわち表面、現在、その危うさと面白さ―こういった閃光のまばゆさは椎名林檎―東京事変―の「閃光少女」によってこんな風に歌われています。以下―見てみましょう。歌詞をよくきいてください☆

・・・はい、さて、以上からわかるように、椎名林檎は少女の「今日」、「今」という「刹那」の快楽への思いと危うさ、そして少女であることの本音を女性の視点からきっちりと歌い上げます。おそらく、性をめぐるホルモン的成熟の中でこれは瞬間であっても、本音でしょう。う~ん、いっちお~、男からいわせていただければ、こんなこと歌っちゃうなんて、ずるいよなぁ~と思いました―だって、これは、ただでさえ生物として強い女のしたたかな戦略のようなものですが、それでも機械的に男心はきゅんと捕らえられてしまうからです。実際、これはいけません。困ります。問題です(笑)・・・椎名林檎は女ごころのもつ誘惑を女の本性として描くのがとても上手だと思いますが、それはさておき、ここまで淫靡になりはしないものの、こういった少女という存在のもつの脆さと危うさ、刹那主義―が宮崎にはあり、それは椎名とはまた別の形をとって描かれてゆきます。
次項ではそれを見てみましょう。

☆変貌する少女―女子供と日本人
個人的にーぼくは多様体につかれた変則者、哲学者ドゥルーズを読むと元気になる「ドゥルージアン」、ざらついた「ポストモダニスト」ですから、自我というものは太枠での構造の案件の言い換えだと思っています。つまり、言葉という枠組み、時代という構造、社会という構造、制度という構造―そういった構造の要請によって、自我という構造を組み立てているにすぎません。マルクスは資本主義はまず「主体性」だといっていましたが、言葉を裏返していってみれば、しょせん自我の主体性というのは資本主義であることの言い換えにすぎません。それでは上で見た椎名林檎はどうでしょうか?少女の自我は尊重すべき確固とした自我であるのでしょうか?まぁ 頭のいい人ならおわかりのようにそうじゃないですね。ここにあるのは不確かで、先の見えない、フラタクタルといってもいいような自我ですね。あやふやで、いいかげんで、感覚的で、あいまい―それは、ぱっと現れたかと思えば、刹那で消えてしまうように見える。それは、だからこそ重要だと思います。したがって、宮崎が少女にこだわったことは慧眼です。なぜなら、それは一瞬の存在であり、だからこそ本質的に無意味―センスではなくて、ナンセンス―な「気分の存在」であり、それゆえ重要な「閃光」だからです。少女の重要さをめぐる構造力学は、いくつかあげられますが、大きいものとしては資本のフラクタル化があげられます。渋谷「109」に代表されるような少女が少女であることそのままで生きられる―という資本主義の成熟というべきか、フラクタル化というべきか、はたまた退廃というべきかは「つか、てか、よくわか~んにゃい☆」んですれども、とにかく現状としてはそれは産業資本主義の先端的な領域として、人々を魅了しています。資本は本質的には他者の視線を介在させなければ、みずからの立ち居地をわからないというパラドクスをかかえていますので、外部的な視線を媒介にすることによって、そのエネルギーを注入しています。つまり、他者、周辺者の力学によって、どうにでもなるような位相にあるような位置にあるのが今日的な資本です。それゆえ、かつての、ソヴィエト連邦のような旧共産主義の国家体制とはちがって、日本においては資本は外部的な視線にたいして、安定した位置を占めることはできません。このことが不安と同時に資本の推進力であることは、たとえばジジェクの著作であきらかです。資本というものは不安を前提とし、不安定であることのエネルギーを集結させる力なのです。その不安と不安定さの最先端がこそ、「ファッション」と「少女」という促進力です。たいしたとりえもなく、はっきりいえば、ほとんど白痴といってもいいほどに「おバカ☆」で、ろくに字もよめない、体ばっかな女子大生がブログで人気をとるのはこういった不安定さにたいする資本の抱きかかえがあるからでしょう。少女はここであらわれます。資本に対して登場する「高感度な少女」のライフスタイルとして―。少し皮肉っぽくいえば、いい悪い、善悪は別にして、その少女のあり方の根源を宮崎アニメは保障しているかのように見えます。つまり、少女が少女であること、子供が子供であって、欧米型に成熟しないでもいいんだよ―という免罪符を発行している。だから、日本人は宮崎という免罪符によって、「癒されて」いるという側面がある。「欧米人にならなくてもいいんだ、子供のままでもいいんだ、日本人はずっと子供のままでいいんだ」―といわれたいがために映画館に足をはこんでいる。文明開化以後、日本人は欧米によって、ずっと傷つけられてきました。江戸時代は「のほほん」と暮らしていたが、文明開化以後、国家間の競争原理を植えつけられ、やらねばやられるの帝国主義原理にしたがって、がんばってきたわけですが、それは目標であると同時にある意味ではプレッシャーでもあったことは自殺者が3万人を超える状況にあらわれています。いくら覆い隠そうと快楽を先行的にかたっても、東洋は西洋の蹂躙の傷跡をのこしています。植民地主義の屈辱は小林よしのりがことさらあおって見せるように、間接的に日本をさいなんでいるかのように見えてなりません。マゾヒスティクに傷口をなめるまでもなく、日本は西洋コンプレックスにひたされてるようですが、ここでも宮崎アニメはその中和作用として機能します。東洋でも西洋でもなく、その中間、そのあいだの表現として宮崎は両者を中和させ、和解させるような働きがあるのではないでしょうか?いまや、国民的アニメ監督といってもいいような、宮崎の名の裏側にはこういった日本人が潜在的にかかえている思いや願いがあるように感じてしまいます。

☆芸能という女子供―ガーリーな反逆者・宮崎駿
たとえば、子供ということを考えて見ましょう。子供はわたしたち大人のように世界を認識しているのでしょうか?いいえ、そうではありませんね。「子供」は禁止を知らず、人間であるというよりは、動物に近い存在としてみなされます。「少女」もまたそういった存在です。でも、それらは現在では、別のあり方、別の存在の仕方としてみなされるようになった。つまり―わたしたちはアフリカの原住民やオーストラリアの先住民といった部族―トライバル―同様、子供が子供であり、少女が少女であることを認めなければいけないという社会状況の中を生きています。もちろん、これはそれほど簡単なことではありません。なぜって―差別や下にみる視線は社会に構造化されていて、その構造をわたしたち大人は暗黙のうちに内部化し、フロイト風にいえば、「超自我化」させてしまうものだからです。そうしてみずからで、みずからの良識と判断を組み立てることによって、社会を成り立たせるわけです。ですが、これからの社会のなかで、それは克服されねばならないと思います。なぜなら、欧米社会のみならず中国やロシア、アフリカを含めた上でわたしたちはこれから多様であること、異物であること、他人であることを受け入れ、認めてゆかなければならない。これはおそらく日本人にとってはとても難しいことですが、できないわけではないと思います。少し話しはそれますが、今日、政治の世界での構造改革というものはこういった多様性にひらかれるような、新しい枠組みづくりの制定がもとめられているのですが、なかなかどうして、暗中模索から抜け出せていないようです。米ソ冷戦構造化の二極化の中で、貧しかった日本はトップダウン形式の命令系統がうまく働きましたが、現在のように社会全体として豊かになり、グルジア問題にみられるように世界が民族とナショナルアイデンティティのなかで多極化してゆき、みんながバラバラの方向を向くようになると、社会的にまとまりを欠くようになります。そして、みな、タコツボ化した情報空間のなかを生き、その情報空間を外れると、コミュニケーションすらできないという脆弱で自閉的で閉塞的な自我それ自身に悩まされるようになっています。こういったものに対抗する戦略のひとつは、「退行」であり、「女になること」であり、「子供になること」です。エンターテイメントとはなにか?芸能とはなにか?―実は、その本質はさげすまれたものが上に来るという倒錯した体系を個人的に無理にでもつくること、すなわち「ひっくり返し」と「あだ討ち」の中にあります。市川 崑監督の「雪ノ丞変化」という歌舞伎をベースにして、見事に「日本の芸能」そのものの本質を描いた作品がありますが、あの作品に見られるように、芸能とは女であることが男であることを、下であったものが上であるものをひっくり返しの構造の中に置きかえてしまうという本質的なテーゼを抱いています。現代芸能ではこれは空虚なシュミレーションという再生産の位置に甘んじるようになり、体験としての空虚な交換性、モダニズムの限界ということに悩まされていますが、それでも生は生であり、体験はいくらホログラムめいていても、ひとつの体験にほかなりません。そして宮崎駿はひとつの「退行」的な領域―つまり子供向け―という表面をよそおいながら、芸能の本質をここであらわしています。「退行」し、「女になること」あるいは「子供になること」。これらは実社会ではさげすまれるものです。自由になったといわれる現代社会であっても、なお、「男が女になること」や「男が子供になること」は蔑みの対象であることはみなさんよくおわかりですね。すくなくとも、良識的なもの、よい趣味なもの、意味―センス―のあるもの、とはみなされない。「女」、「子供」、「ナンセンス」はその本質として、堅実さと誠実さの生産と貯蓄のエピソードから外れるものです。(女は男にくらべるとナンセンスだ、子供は大人にくらべるとナンセンスだ、ナンセンスはセンスにくらべるとナンセンスだ)・・・ですけれども、いくら男性であっても、もし資本という主体的なじぶんからはなれて、胸に手をあて、自らに正直になるならば、それはだれにだってあるはずじゃないのか!-とぼくは思います。なぜなら、わたしたちは資本による積分の自我であると同様に、資本における微分の自我でもあるからです。積分の自我は微分の自我におうおう気がつかないことがありますが、それはないというわけではないのです。そうして、宮崎がポニョのみならず、映画監督としてのその「表現命題」として表現することは実社会に対する「女子供のあだ討ち」、あるいは「女子供であること」のそのままの肯定をすることです。そこにはたとえそれが暗黙のうちにあってでも、「男大人の社会」を異化させ、書き換えてやろうとする意図が感じらるのです。そして、そこがこそ、他のアニメ作家と宮崎の根本的な違いなのだと思います。


☆「大人―男」こそ「女―子供」に学ぶべき時代
以上に見たように、宮崎駿の命題はいまや明らかです―女の子のハートをもった老人、ガーリーでキュートでチャーミングなアニメ監督。彼が告げていることを一言でいえば、「大人男」こそ「女子供」に学ばなくてはならないということです。でも―それは、ふてくされることなく、ちゃんとしっかり学ばなければいけません。本当ですよ、頭の固い男性陣!

そして、それは現代を生きてゆくための必須科目なのです☆
by tomozumi0032 | 2008-09-07 19:05 | アニメ評論
←menu