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徒然日々のこと―日々のこと。つかそのまんま―

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☆ゆぅき~やこんこんせぇき~やごほんごほんはははははくしょ~いっ!
ここここここのあいだ、ひさしぶりに新雪をみた。積もっているところのみならず、降っているところもじ~っとじ~っとみた。

雪ってながめてると「ひらひら」してて、雨みたく「ざーざー」してない。
雨って弾丸で男らしいけれども、なんだか雪は布の切れ端が空から落ちてくるみたいで女らしくって、同じ物質だっていうのに、どこかしら優雅に見えててしまって、同じ風景がはらはらとあえかの刹那をかさねて彩りを変えてゆくのをぼんやり眺めていると好い気分になってゆく。
雪はみんなに平等に降り積もる―金持ちにもまずしいのにもあたまいいのにもあたまわるいのにもへんなんにもまともなんにも。

それが「いか」してる。つまり風景を「異化」してる。そんなもんは「いか」がっしょ☆
「いか」った、「いか」った。「いか」んともしがたく、「いか」にも「以下」、いうことねっす☆
いやいやそれじゃぁ~「いか」んぜよ、ハニー☆

さて、ともあれ、はい、よいしょ、今年の東京は雪がおおくて、ちゃっぷい、ちゃっぷい。
寒さに負けるのもむかつくんで、カラダを冷やして、体を強くする訓練して、あんま、暖房いれないことにした。ちょっとぐらいの寒さに負けるのは、まぢ、くやしいんで・・・。寒い、寒いともいわず、鼓動のBEATをたけらせれば、血も熱せられんぢゃないのか―などと試みに思いつつ。

押忍!熱血!
血が熱くもえたぎっているのは寒さへの特効薬、なんちゃって☆
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☆おりょ~りのじかんはらせんじかん
一人暮らしもながくなると、料理があまり苦にはならなくなってくる。
というよりは、部屋ですごす時間がながくて、本をよんだり、映画をみたり、ぼんやり夢の中をたゆたったり、目にうつる色彩たちとたわむれたり、綺麗な俳優たちやすごい言葉たちの群れ群れにぱっかぁ~んとうつつをぬかしたりしていると、なんだか料理が好い気分転換として、日常の回路に組み入れられ、規則的な体内電極の切り替え運動をしているような感じがしてくる。つまりそれは日常に欠かせないひとつの行動になって、おんなじところを流れる電流を切り替えてくれるってわけ。外食もたまには好いが、毎日になるとちと味気ない。外食の、あの運動に見られる直線性が嫌いだ。

行く。注文する。食べる。お金払う。行く。注文する。食べる。お金払う。行く。注文する。食べる。お金払う。行く。注文する。食べる。お金払う。

このような繰り返しによくもまぁ金を払うべきだと人は考えるものである。なぜって―だって、運動法則の単純性からいえば、まったくこれぞ直線型蓄積型のこの時代のシステムのミニチュア以上のものでしかないからだってからで、なんの面白みもない。だいたい喰う喰う、美食だ、うんぬん、ほざかしい!・・・・・・・つぅかぁ~、ねぇ!!、ど~してわかんね~のかねぇ~・・・料理の真の醍醐味はそんなところにないってことが。料理の真の醍醐味はやっぱ時間軸の切り替えにある。直線的蓄積型のいわゆる社会学時間から、螺旋的な生物学時間への切り替え。読書もそう。違う時間軸を同じシステムの欲求による問いで答えるところからおおくの齟齬は生まれる。だいたい異なる時間の系をおなじ物差しで計れるわけがない。それは無茶というもの。西洋と東洋、新大陸と旧大陸、おおくの文明の衝突、モダニズムの傲慢み~んなおんなじ過ちじゃんか。だいたい現代社会のうさんくささは時間が共有しあえるという嘘の上に、なりたっている。経済もそ。価値もそ。あるいは今目に見えるものもそ。人間の傲慢だ。社会の無言の暴力だ。そしてそんな無言の暴力にたえて生きねばならない現代人は可哀想だ。ちょっぴり☆

そんなわけで、さいきん、外食はさっぱりしません。してたまっか―んなもん。すっかつ~の。ばかたれ。お洒落なふいんき―なんてももんにもだまされはしません。そ、だって、だって、もう リッパな大人だもの、だから、そして生物学的螺旋時間を今日も生きるのさ☆

だばだばだば~るるるるる~☆

ほたてに牡蠣、豚の内臓、豚のももの肉、鳥のはらわた、鳥のおっぱい肉、しゃっきーんとしたほうれん草、はくしょんはくさいは歯くさい、でっぷり肥えたキャベツにしどけなく皮をぬぐタマネギ―

よく研いだ出刃庖丁でざっくざっく、さっくさっく、さっくまいきっす☆
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☆さんねんはちぎがれべるっつかてかう~ん・・・
今日は休みだってこって、AKIBAへGO。

ああ はたして、AKIBAにはひとひとひとひとひとはひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひとひと―ってぐらいひとがいた。

なにしにいったのかっていえば、たまっているコンピューターのデーターのバックアップ用USBのメモリースティックの8GBを買いに行った。ネットで買ってもよかったけれども、ど~せだったら街ぷらぷらして、空気吸って、なんか気分になって、街の感じと一緒に買いたっかたんだよ。大きいところは嫌い。大きい店も嫌い。ポイントついても気分が好かんし、だいたいなにが面白いっていうの?買っているというより、買わされているっていう義務が先だつ買い物は最低・・・だってさ、損した気分になるしさ、店員のソフィスティケートされた態度や板についた営業スマイルに逆切れしてむかっ腹まではたてないものの、あじけね―っていうか、モダンやっぱあじけねっ・・・と思うもん。やだもん。そんなもん。やだもん、やだもん。もんもんもん☆もちろんべつだん個人のだれそれに恨みや反感を抱くってわけじゃないけどさ、でもシステマチックに送られてゆくのが、なにはともあれ、気に喰わない。意固地になって反抗してしまう。そんな男なので、ビル群のみおろす小売りの安くて小さな店をうろついて、お手製で楽しいヘタウマイラストが添えられたボードにくすくす笑いを洩らして、あっちこっちおちおち値段をくらべてあっちかこっちかそれともどっちか―な~んてことをえっちらおっちら考えて、比較して、迷い、ためらい、渦巻くイメージの渦にぐるぐるするのが楽しいのである。けっきょく高いのか、安いのか、よくわからない値段で買って、でも満足だけはして、ほっと心もホットになって、ほほっと部屋へもどって、ぴぴっとデーターをおとす。ぴこぴこグリーンライトが点滅し、待ちうけ画面のひだりからみぎへとゆくグリーンのキューブをながめていて、ふとこれはだいたい3年ぶんのデーターであることに気がつく。ああ そっかぁ そうだよね おれの3年分、写真とか文章とかってだいたい8GBですっぽりおさまっちゃうってことだよね。一年換算で約2・7GBぐらいか、じゃ あとの将来おおく見積ってだいたい50年、だいたい135GBぐらいのものかもなぁ~。

だいたい135GBレベルの残りの人生。
そしてだいたい8GBレベルの3年間。

う~ん おさまっちゃうのかしらん・・・☆
あららん なさけない、けど、でもそんなもん?

もちろん脳はちがう。はず。その10倍、100倍のことなった記憶システムと思いもよらぬフレキシブルで記号と言葉の世界をつないで、おおきなパースペクティブで再統合させる。はず。
けれども、外部記憶的にはそんなもんだと数字ででた。

さんねんはちぎがれべるっつかてかう~ん・・・

なんだか割り切れるようなそうでもないような―記憶のメタルスティックをながめながら、おかしな感慨がのぼってきた。それにしてもコンピューターはこれからの人生を記録し、人生に大きな影響をあたえるのだろう。おそらくコンピューターという外部記憶システムが日常生活にするりとはいりこんで、よいにせよ、わるいにせよ見過ごすことの出来ない影響をあたえ、世界の見方を変えてしまうにちがいない。むかし考えられてきたように人生やモノゴトは考えられなくなるのだろうか?インスタントメモリーが増殖して、あたりがそいつでうずまる。あるいはポップアッCMが増殖し、世界はどこをみても、ポップアップCMだらけ。こんなインスタントメモリーとポップアップCMの嵐の中で人はどんなふうに自分を錯覚し、世界を錯覚し、インスタントなコミュニケーションのわたしごっこをするのだろう―などとぼんやり思っているうちに夜も明ける。東の空がバラ色にそまる。今日は晴れそうだ。ああ 晴れは酔い。好い。酔い―

ちゃんちゃん☆
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