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2・28事件

☆2・28事件
1947年2月27日、中国国民党統治下の台北市で闇タバコを販売していた女性を、国民党政府の官憲(台湾専売局台北支局密売取締員6名および警官4名)が摘発した。女性(林江邁40歳、2人子持ちの寡婦)は土下座し、許しを懇願したにもかかわらず、取締官は女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収したのである。

戦後の台湾では、酒、タバコ、砂糖、塩等はすべて国民党によって”専売化”されていた。しかし、大陸ではタバコは自由販売が許されており、多くの台湾人がこの措置を“差別的”と考え、不満を持っていた。タバコ売りの女性に同情して、多くの台湾人が集まった。すると取締官は今度は民衆に発砲、まったく無関係な台湾人(陳文渓)を射殺し、逃亡した。

この事件によって中国人への台湾人の怒りが遂に爆発した。翌28日には抗議のデモ隊が市庁舎へ大挙して押しかけるのである。しかし、外省人側は強硬姿勢を崩さず、憲兵隊は市庁舎の屋上に機関銃を据えて、非武装のデモ隊へ向けて無差別に掃射を行う。多くの市民が殺害され、傷を負った。

これが発端となって、政府関連の諸施設への抗議行動や、中国人に対する暴行事件が台湾全島で頻発した。当地人側はラジオ放送局を占拠。軍艦マーチと共に日本語で「台湾人よ立ち上がれ!」との放送も行っている。

蜂起者の一部には過激な復讐心も芽生えた。中国人に対し「チャンコロ」と罵って暴行を行った者もいる。その際台湾人側は、君が代や教育勅語を日本語で唱えることができるかどうかによって、相手が台湾人であるか否かを区別したという。

劣勢を悟った国民党政府の長官府は、一時中国人側に対して対話の姿勢を示した。しかし、台湾行政長官兼警備総司令・陳儀(妻が日本人、のちに中国共産党に寝返り、1950年6月18日に蒋介石によって台北馬場町にて公開銃殺処刑された)は、大陸の国民党政府に密かに援軍を要請した。彼は「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」「台湾人が反乱を起こした」「組織的な反乱」「独立を企てた反逆行為」「奸黨亂徒に対し、武力をもって殲滅すべし」との電報を蒋介石に送っている。

蒋介石は、陳儀の書簡の内容を鵜呑みにし、翌月、第21師団と憲兵隊を大陸から派遣して大弾圧を開始した。この際、裁判官・医師・役人をはじめ日本統治下で高等教育を受けたエリート層の多数が逮捕・投獄・拷問され、その多くは帰らぬ人となった。また、国民党軍は一般市民にも無差別的な発砲を行っている(証言も多数あり)。基隆では街頭にて検問所を設け、市民に対し、北京語をうまく話せない当地人をすべて逮捕し、「針金」を本省人の手に刺し込んで縛って束ね、粽(チマキ)と称し、トラックに載せ、そのまま基隆港に投げ込んだという。

この事件によって、約28000人が殺害・処刑され、彼らの財産や研究成果の多くが接収されたといわれている。正確な犠牲者数を確定しようとする試みは、いまも政府・民間双方の間で行なわれている。

事件の際発令された戒厳令は40年後の1987年まで継続し、表向きは事件が収束したように見えた後も白色テロと呼ばれる恐怖政治が永らく続いてきた。国民党が戒厳令を解除した後も、国家安全法によって言論の自由が制限されていた。今日の台湾に近い形の「民主化」が実現するのは、李登輝総統が1992年に刑法を改正し、言論の自由が認められてからのことである。  (出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』)
by tomozumi0032 | 2008-01-28 02:30 | NOTE
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