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消費社会の神話と構造 3

 その2からのつづき☆ 
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★解放は本当の意味での解放だろうか?


いまや肉体は管理され、資産として記号となり、消費社会を貫く基本的な原理としての「消費ブツ」となった。この原理は広告の中へ、生活の中へ拡散する。こうして消費社会にそうやってセックスを氾濫させることによって、セックスの中にそれまであったなにか、より本質的ななにか、差異としてあったなにか、均質でフラットなものとして置き換えてしまう。

セックスが消費社会の第一面で取り上げられて、マスコミュニケーションの意味作用の全領域を重層的に決定している。見るもの、聴くものすべてに露骨に性的ビブラートがかけられ、消費されるものすべて性的色彩を帯びている。・・・中略・・・(ここでの問題は)商業化・産業化されたモノやメッセージの変化に応じて性をますます組織的に取り入れることによって、既成秩序はモノとメッセージの客観的合理性を歪曲し、性の爆発的合目的性を奪い取る。」

広告やTV、雑誌などセックスは消費社会の中に拡散している。しかしそれは「モノ=記号」としてであって、その本質は消費的な平面に置き換えられている。つまり消費可能なものとしてコード化される肉体。そこで繰り広げられるマニュアル化したパックとしての快楽の舞台―ここにはなにかがない。セックスを本来的に根拠付けたなにか―生命力の瑞々しい力。

性的記号がコード化される過程では、象徴機能も幻覚もその他の性的意味をもつものもすべて削除・検閲・廃棄されてしまう。というのも、このコード化によっていたるところに性的なものがバラまかれるが、それらは統辞法の支配から逃れた直後に、閉鎖的で同語反復的な操作の対象となるからである。あらゆる形態の性はこの組織されたテロリズムによって実態を失い、「消費用具」(「モノ」)となる。」

かつて性は消費用具(「モノ」)ではなかった。が、いまではすっかり消費用具(「モノ」)であり、器官は分解されて、テクノロジーによって処理される。たとえば「バスト89CMのIカップ」というのは消費用具化されて数値化された性的道具を表現している。あるいは女性器を「名器」とよぶのも同様だろう。

風俗やテレクラなどの数値的性産業(数字がセックスの間に介在する産業化された「性」)社会においては、セックスは「人間の全体体験」ではなくて、「人間の器官の体験」となっている。「唇」と「乳房」と「性感帯」と「性器」の体験としてのセックス。人間としてではなくて、解体された器官としてのセックス。人間性そのものとしての分節化ではなく、器官の強度として測られる女性―女性のがわでもこの器官的強度が経済的価値であることを知っている。こういった社会の女性の危険はここでみずからを器官として取り違える可能性だということをボードリヤールは指摘する。

「もっとはっきりいえば、かつて「性」として従属を強いられていた女性がやはり「性」として「解放」されるわけで、この混同は現代でも姿を消すどころか、あらゆるカタチで取り返しがつかないほどに深刻化している。というのも、女性の「解放」が進むにつれて、女性が自分自身を自分自身の肉体そのものと取り違える傾向がますます激しくなるからである・・・・・・表面的に解放されただけの女性が、自分をやはり表面的に解放されただけの肉体と混同するのだ。」

消費社会の中で性は解放され、肉体は解放された。
大量生産される産業社会の中で解放される性は、その内部に大量生産の特有の論理を織り込んでいる。性もまた前述した象徴機能が破壊された社会、分断され分解され、全体性への潜在的な憧れのなかで、産業として切り離された機能と価値として客観化される。(これは「産業」としての性であって、「欲望」としての性ではない)そしてこの「解放」はその中に大量生産産業社会特有の「検閲」と「操作」を孕んでいる。つまり「解放」という広告、デザイン、キャッチコピーの中の「検閲」と「操作」であって、「操作された解放」はもはや「解放」などとはいえない。
そしてこういった性の氾濫をボードリヤールは問う。

「おおざっぱにいえば、問題は次のようなものである。ここには本当にリビドーが存在しているのだろうか。エロティシズムの氾濫のなかには、真に性的なもの、リビドー的なものがあるのだろうか。広告のみならずマスメディアのシステムは真に幻覚的「シーン」となっているだろうか。」

そして答える。

「真の幻覚は表現しえないものだ。たとえ表現しえたとしても、それは直視に耐えないものとなるだろう。剃刀の刃で囲まれた、女性のぬめぬめした唇をあらわすジレット剃刀の広告が直視に耐えるのは、そこに暗示されているペニスを去勢する膣の幻覚そのものを表現しているわけではないからだ。つまりこうした広告は統辞法をうばわれ、バラバラに切り離されたうえできちんと整理された一連の記号を組み合わせるだけで満足しているのであって、これらの記号はいかなる無意識的連想も喚起せず、「文化的」連想をよびおこすにすぎない。それはさまざまな象徴をよせあつめた蝋人形館であり、性的衝動の作用の痕をもはやすこしもとどめてはいない、記号としての化石化した集合体なのである。」

ボードリヤールにいわせれば、こういうことだろう。進行する情報革命の下で広告とマスメディアの趨勢、あるいはコンピューターとネット化のうねりの中、社会は非常に安易なカタチでの記号の組み合わせの目新しさを競う。しかしそれはその組み合わせ以上のなにかであるのだろうか。こういった統辞法にまとめられない分断と分裂は記号の廃墟にすぎず、その化石にすぎないのではないか。そしてそれが呼び起こすのは消費社会が用意した精気を欠いた記号集積としての肉体、あるいはセックスにすぎないものなのではないか。

「広告の扇情的装置をつうじてわれわれを真に条件づけているのは「隠された」説得や無意識的暗示ではなくて、むしろその反対に象徴機能やきちんと分節化された統辞法中にもちいられた幻覚表現など、つまり性的意味をもつものの生き生きとした表現にたいする検閲という、深い意味での検閲である。性的記号がコード化される過程では、象徴機能も幻覚もそのほかの性的意味をもつものもすべて削除・検閲・廃棄されてしまう。というのも、このコード化によっていたるところに性的なものがバラまかれるが、それらは統辞法の支配から逃れた直後に閉鎖的で同語反復的な操作の対象となるからである。あらゆる形態の性は、この組織化されたテロリズムによって実体を失い消費用具になる。この消費用具になった段階で、性は消費過程に吸収される。」

広告にあるのは検閲であり、TVとマスコミ、あるいはコンピューターの表舞台にあるのは検閲である。そしてそれらは解放という名の検閲なのであり、いわゆる社会というものはこういった検閲を前提としている。こういった検閲にのっとらないものは、ようするにスキャンダルなものであり、大量生産された解放にあるのは、解放という意味での検閲なのだ。そうして社会はこういった言語的な矛盾をはらんで、カウンターカルチャーを取り込むのだから、その表面的な均衡は見かけの平静さ以上に実は相当あやういものなのではないだろうか。
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★時間浪費という豊かさの欠如

「わたしたちは時間を稼いで一生を過ごさずにはいられないというこの宿命を祓いのけるのに充分なほどおおくの時間を浪費することができない時代に生きている。下着を脱ぎ捨てるように時間を捨てるわけにはいかないし、貨幣同様、時間をつぶすこともなくすこともできない。貨幣と時間は交換価値のシステムの表現そのものだからである。象徴的な意味では金貨も銀貨も、客体化された時間も排泄物だが、貨幣と時間に排泄物としての古風で供儀的な機能を与えることはほとんどないし、現在のシステム下では論理的に不可能である。そんなことが可能なら、わたしたちは象徴的なかたちで貨幣と時間から真に解放されることになるだろう。ところがわたしたちを支配する計算と資本の秩序においていわばその反対のことが起こっている。この秩序によって客体化され、交換価値として操作されているのはわたしたち自身であり、貨幣と時間の排泄物となったのもむしろわたしたちの方なのである。」

現代社会において、時間は貴重な資源、貴重な交換財として、みなされ、労働と自由時間に二元化されている。レミントンのタイプライターに印された金科玉条。「TIME IS MONEY」。労働時間は義務として行わなければいけない時間であり、自由時間は自由に使うことが許可された時間として、社会的に認知されて、交換価値に従う貴重な商品とみなされているわけだが、そういった商品としての自由時間とは、ボードリヤールによれば、自由時間ではない。なぜならここでいわれている自由とは拘束を前提とした自由だからであり、時間が計量される生産システムの抽象性という完全な抽象性に支配されており、そういった支配の構図のなかでしか思考できなくなっている以上、それをもはや自由とは呼べない。動物や未開社会の中には時間は存在しない。すなわち時間という概念をさだめることによってのみ、時間は人間、現代人にとって、存在するものとなるのである。だがこの存在することになった時間にはやはりなにかが欠けている。そしてそれは絶望的、解決不可能な矛盾を前にして、循環構造をへめぐるようなそんな根本的な欠如なのであり、逆説的にいえば、自由は自由を前提としている以上、自由とは呼べない。ボードリヤールはこのような自由な時間の根本的矛盾を告発している。

「「時間を所有し始めると、時間はもう自由ではない。」もちろん、この矛盾は言葉の矛盾ではなく、本質的なものであって、これこそまさに消費の悲劇的逆説である。所有され消費される一つ一つのモノ、自由時間の一分一分のなかに、各人は自分の欲望を注ぎ込もうと願うか、あるいは注ぎ込んだと信じている。だが、所有されたモノや実現された充足のなかにも「自由に使える」時間のなかにも欲望はもはや存在しないし、存在できるはずがないのである。そこにあるのは消費された欲望の残り滓にすぎない。」

それでは逆にどのような社会が自由時間をもっているのだろうか?

「未開社会には時間が存在しないので、人々が時間をもっているかどうかを問うことには意味がない。そこでは時間は、反復される集団活動のリズム以外のなにものでもない。時間をこれらの活動から切り離して未来に投影し、予測と操作をおこなうことは不可能である。時間は個人的なものではなく、祭りの行事において頂点に達する交換のリズムそのものなのだ。」

時間という概念を定めることによって、そうしてそれを予測し、操作し、スケジュール調整することによって、わたしたちは時間を失っている。こういった未開社会との比較からいえば、たとえば、「ヴァカンス」(休暇、空っぽの状態、つまり無償の行為、完全な剥奪、空虚)は「ヴァカンス」ではない。それは未開社会の時間性に焦がれながらもけしてたどりつけないものなのだから。

「かれらは「ヴァカンス」のまねごとをしようと必死になっているのだが、真のヴァカンスとは自分自身および自分の時間の喪失のことであって、時間が決定的に客体化された世界の住民である彼らにとっては絶対にたどりつけない世界である。」

けっきょくこのような時間の中でわたしたちに自由などといったものは存在しないことをボードリヤールは結論づけている。

「われわれのシステムのように統合された全体的システムのなかでは、時間の使い方に関する自由は存在しないだろう。余暇は時間を自由に使えることそのものではなく、この自由のポスターにすぎない。余暇の根本的な意味は、労働時間との差異を示せという強制である。だから余暇は自律的ではなく、労働時間の「不在」によって規定される。よかの本質的価値でもあるこの差異はいたるところで示され、誇張され、店ビラ咲かされている。余暇のすべての記号・態度・実践のなかで、また余暇が話題とされるすべての言説において、余暇はそのような見せびらかしや絶えざる誇張を糧とし、自己宣伝によってなりたっている」

現代社会に生きるわたしたちには自由時間などといったものはない。あるのは拘束された時間のみであり、どんなにそれが長くとも、消費的な「気晴らし」の時間にすぎない限りにおいては「生産の時間」なのだから。余暇は表面的には無償の時間のように見えるが、生産の時間と奴隷化された日常性にともなうすべての精神的・実践的拘束を忠実に再現している以上、拘束された時間なのである。
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