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ほんとうにじかんはちょくせんてきにながれるものなのだろうか?

◆もちろん―
時空間というのはわたしたちの制約である。

それは残念なことだろうけれども、時間と空間を飛び越えてわたしたちの存在は存在できるわけではない。どうしてもここにある種の限定と制約が生じてしまう。

◆でも―
芸術や学術やサブカルチャーあるいはコンピューターの体験の素晴らしいところはそういった時空間を超越させてくれるところにあるのではないだろうか?

◆ダリの絵で有名な「溶ける時計」のイマージュがあるんだけれども、あれを見ていると時間というものについて、いやおうなく考えさせられてしまう。

◆時計が溶けるというのはどういうことなのかしら?
時計に象徴されている時間そのものが溶けてるってことかしら?
―ってことはダリに従うとわたしたちの覆われているこの時間というものは「溶けた」「溶解」の時間そのものってことなのかなぁ?―なんて・・・。

◆プルーストの「失われた時をもとめて」を読んでいると、時間に対する考察のようなものの巨大な集大成という感じがしてしまう。事実時間そのものへの哲学的な考察という意味であの本ほど時間を考えた本というものはないのでは?―なんて・・・。

◆あるいはドゥルーズやキューブリックの真の魅力は時間軸を超越してみせて、その超越した時間軸をある読みによって明示することにあるのではないだろうか?とくに「ミルプラトー」にみられる時空間超越は素晴らしく美しく、なにより自由だ。

◆現代的な思考でいえば、時間軸というものは直線的なものだと認識されている。社会総体、社会身体、理性身体、新聞や雑誌はこういった時間軸によって立っている。

―だ、けれども、どうしても疑ってしまう。

本当にそうだろうか?

本当に?そういい切れるのか?

◆ぼく個人でいえば、時間が直線状であるなんて、まったく思わない。
ぼく自身を観察してみると、速い時間の部分もあれば、遅い時間の部分もあって、直線状というのは社会共有されるもの以外のものではないと思う。

直線状の時間が流れているのは「部分」、というよりは「共同体幻想」としてのものではないだろうか?

◆ぼくの時間は分解されていて、むしろ平面状なものだ。

たとえば、6歳児のぼくは、今もなおぼくの傍らにいる。
あるいは、18歳児のぼくは、今もなおぼくの傍らにいる。

それらは乗り越えられ消え去ったものではなくて、むしろまだ傍らに生々しく息づいているものだ。そしてそれは時々「ぴょこん!」と、あるいは「ひょっこり」顔を出すものである。

◆現代社会の「傲慢」は時間が一元的に流れると思い込むそのことにあるのではないか?
ぼくの意見ではこういった一元的な時間軸設定は効率優先の、合理主義優先の、現代のものだと思う。

◆そして―その現代というものは「バブル経済」あたりを頂点に終わっているのではないだろうか?終わっているにもかかわらず、わたしたちはこれに準拠する形で思考し、判断している。例えばなにかをなにかとして―ニートをニートとして、引き籠もりを引き籠もりとして思考するのは、それが準拠する時間軸の想定なくしてはありえないのではないのだろうか?

◆本当は新聞は嫌いだし、真実を伝えているものだとは思えない。なぜなら時間軸を一方的に想定したものだから、である。
あるいは雑誌は嫌いだ。なぜなら時間軸を一方的に想定したものだから、である。

そこで踊る言葉が馬鹿げている。

そして―それでしか判断できないというのは「傲慢」あるいは「無知」というものではないか?

◆もちろんこう考えることはできる。つまり―
社会体に折り畳まれた時間と個人体に折り畳まれた時間は異なるものだ、と。
それはバブル期以前の日本では比較的近いものだった。
しかしそれ以後の日本では大きくことなるようになったものであり、いわゆるポストモダンの社会体に接続される個人身体は大きく異なる時間体を進行させている、という風に―

◆社会がバラバラになっているのではない。
バラバラになっているのはむしろ、時間だ。
そしてそれを一元的な統治構造で言葉にしようとする言語装置的な言説はおおよそ信じがたく、疑わしい。それがいかに精緻で巧みに出来ていようとも、である。
by tomozumi0032 | 2006-11-24 02:16 | 社会評論
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