ミル プラトー

今日はドゥルーズ=ガタリの「Mille Plateaux」の簡単なまとめをしてみます☆
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(^ο^)「―で何が面白くて、どういうところに興味をもったんでしょうか?」

C☆「いっちばん最初はテクノのレーベルで、ベルギーだったかな、ドイツだったかな、おぼえてないんだけど、「ミルプラトー」っていうのがあって、それが記憶にあったし、それから浅田彰の「逃走論」なんか読んでたし、「アンチオイディプス」も面白かったし、で ま どんなもんかなぁっていう軽い気持ちで(笑)―で、すごい本だ!強烈!と思ったわけです。すっご~い!こんなこという人いないじゃん、なんてすごいんだろ!とか思ってくらくらしちゃって(笑)ぼくバカだから、もう 目眩まされちゃって―たいへん(笑)」

(^ο^)「あ そ、それは、それは。ごちそうさま。―で、ミルプラトーって何?どんな感じなの、どこが面白かったってか?」

C☆「ミルプラトーっていうのは、直訳すれば千の高原という意味。つまり単純にいえば「高い原」っていうことだろうね(笑)複雑にいえば、どんな外部的な結末によっても中断されず、どんな頂点にも向かわないような「連続強度の地帯」のこと。バリ島の文化なんかにはこういった文化の攻撃的プロセスが見出されるんだって。トランスミュージックなんかで踊り狂ったりしたときに得られる肉体位相と近いように思うんだけど―ま、で、どこが面白かったっていえばあれ、あの―人間中心主義じゃなくって、これまでの古い形での機械=人間=自然の対立的な関係っていうのを、思想として覆すっていうか―生物学的にもいわれてんだろうけど、ここまでドでか~い総合っていうのはなかったし―つまり、マクロの意味では機械と人間と自然を対立的なものとして考えられないっていう認識ですね」

(^ο^)「はぁ なるへそ。んでも、んでも もうちょっと続けて」

C☆「はいはい、では、最初におさえとかなきゃ文脈が分りづらいので、学術サイドからおさえてみれば、この本というのは、主体を複数形のものとするという意味でサルトル哲学の継承、言語学的にはチョムスキーの樹状モデル批判、それからアンチオイディプスに引き続いてかなり過激なフロイト批判、そして構造主義者であるレヴィ ストロースへの直裁批判、ダーゥインの進化論の継承、クラウヴィッツの戦争論の肯定的批判(?)、スピノザの擁護、であって、つまりB級・パルプ的っていっちゃなんだけどさ、主流ではないものの擁護による文化総体と人間経験総体のひっくり返しを狙った極めて野心的な書物であるとはいえるんじゃないかな・・・それから文学的にはビートニックなボヘミアン文学の圧倒的加速と敷衍、抽象レベルへの置き換えと進化と深化、そして音楽における実験文脈の擁護―モーッアルト、ブレーズやケージの擁護、それから国家装置と遊牧民の学問というものを対称させることによって、新しい価値の敷衍という役割をもっており、つまり現代社会諸問題に対する射程の広い百科全書的な原理の抽出だと思いました」

(^ο^)「・・・っつ~か あんま答えになってないんだけど、ぼくががいってんのはさぁ なにが面白いのかっていうこと―前置きはいいんで、「なにが」に答えろよ!そうしないと内臓レバーにして、くっちゃうぞ☆」

C☆「あ・・・はい、えっとこれだけはいっておきたいんだけど、まず読んで逃走論ってこれを小さくまとめたんだなぁって、思いました!」

(^ο^)「は!? そ。なんでなんで?」

C☆「う~ん べっつにぼくは学者でもないし―あ―いやもちろん・・・浅田は尊敬してるしドゥルーズ自体に触れるきっかけを与えてくれたってことで教えていただいたことは多々あるんだけど・・・じゃ簡単に浅田の批判。えっと・・・まず―逃走論の扉絵に描かれていた三角形―あれはね~やっぱ手書きじゃないと駄目だと思うんだけど(笑)…っていうのは、やっぱドゥルーズのよさはあの挿絵に代表されるアナログ感覚だよね。あれをテクノな浅田が解釈しちゃうと、なんだか変なんだよね。これは全体にも敷衍していえることであって、同時に松岡正剛にも言えることだと思うんだけどさ、彼らってつまりいいとこどりだけして、いいトコ繋ぎ合わせて悪いところをとらない傾向があるよね。だから逃走論にしても、松岡の本にしても、危機が語られずにいいところばかりが語られるっていうのは、どうなんですか?教養ありゃあいいってもんでもないだろ、って思っちゃうんだけど。だから今からでも遅くないけど、あれ三角形の手書きにしないと駄目だよね―それから浅田はそうはいってもハイカルチャーの側に対して強い確執をもっていて、その意味で違う。たぶん彼はさ~、バロウズ、ピンチョンって名前だけだしてるわりにはどうにも関心をもっているところがちがうような気がしてしまうんだけど。「逃走論」を見ていても、「ヘルメスの音楽」にしても、前時代的学者のエスプリに裏打ちされたものだよね」

(^ο^)「けっこうなまいきにいうわね~、えらそ~にさぁ、まぁ ぼく的には多様な解釈が成立するし、それはそれでいいとおもうんだけど、きみはふるいっていいたいわけよね?」

C☆「カンペキね。古いよ、あれ、なんであんなにハイカルチャーに固執するのか、よく分か~んない!―だから極めて80年代的な時代環境の中で成立した感じは否めないし、綺麗なところだけ取りすぎだよね」

(^ο^)「でも―現代においては、そういった新しい古いといった直線構造的な時間軸そのものが否定されていて、スーパーフラットな平滑空間化しているっていうところもあるでしょ?古いとはいえなくて、むしろ棲み分けっていうか、テリトリー(領土)を作らせて、そのテリトリー(領土)に作家を捕獲して、構造化させているんでしょ。だからそういった棲み分けから見れば、その固執ってやつも説明されると思うんだけど―彼の領土であって、その領土で上手くできるところをうまくやるってきわめて温情的かつ良識的な処置じゃない」

C☆「あ~ うん でも逆にいえば、そのテリトリーに安住してていいのかってのが、問題じゃない?テリトリー化した領域で権力を振るうなんて、最低だと思うんだけど―まぁ でもたしかにそういってると社会生活営めないことは分るけど、さ―」

(^ο^)「きみの意見ってのは作家的なのよね、浅田せんせは学者なんで、どうしても立場があるし―」

C☆「立場をなくすこと、つまりドゥルーズのいう「知覚しえぬものになること」というのはたしかになかなかどうしてむずかしいよね…そういった意味で非常に捕獲しがたいような言説をドゥルーズは孕んでいて、捕獲できないゆえに、いわゆる国家装置的な言説から逸脱する部分がたぶんにあって、それってつまり21世紀的だと思うし、蓮実にも通じるB級感覚だと思うんだけど―つまり国家装置に準拠する形で権威付けられてきたヘーゲルを頂点とするような静物的学術体系に対するもう一つの、オルタナティブなものとして機能するようなものとしての動的学術体系、で―ここでは今までよいとされてきたものが、攻撃されて、それほど評価されていなかったものが評価されている。例えば、ゲーテに対するクライストとか、ヘミングウェイではなくて、フィッツェジェラルド―つまり、いい子ちゃんじゃないもの、脱落者ね、で―こういったものの拾い上げをやっているんだけど、ぼくの見解ではこれぞ確かに現代あるいは未来だ、と思って唸らされるところが多々あるんだよね」

(^ο^)「ってのは、つまり―」

C☆「つまり―ロックだよ!!ロッケンロール哲学!たとえば彼って動物を観察し、体系をつくれ、とはいわない。じゃなんていうかといえば、「動物になれ」「女性になれ」「此性となれ」っていうわけ。生成変化せよって。動物になって、女性になって、此性となるんだよ。それで知覚し得ないものになれっていうの。面白いよね。ぼくの解釈では彼の言葉っていうのは一見抽象レベルへ投げられていて、現代を迂回しているように見えて、実は極めて現代諸問題の深いところを捉えている。たとえば―「存立平面」っていう概念はコンピューターのスーパーフラットな平面が視野に入るだろうし、「器官なき身体」は身体としての原型の呈示という意味で進化論や生物学や遺伝工学のエッセンス、生体臓器売買までが、あるいは「国家装置」と「遊牧民の戦争機械」をめぐる「条理」と「平滑」のふたつの空間呈示は、現代の犯罪学(おれおれ詐欺から少年の殺害の問題まで)が視野に入るよね。つまりこの本の中には現代をより深い射程からより概念的に説明しうる論理格子がめぐらされているといえるんじゃないかな。つけくわえば、宮台真司が理解できないと嘆いている若者の心的経済の構図は、ドゥルーズを読めばだいたい理解できることだと思うけど。しかもオイディプスに較べると読みやすいし…」

(^ο^)「読めってことか…」

C☆「読書っていうのは訓練だからね。脳の筋肉を鍛えるための―読むっていうのは、脳の筋肉の腕立て伏せってことでしょ(笑)色々な角度から、色々な世界があるということを受け入れること、そしてそれをなんとか自分の脳の中で咀嚼して、せいぜい自分なりの問いと答えを探究してみることが大切じゃないかと思います…それにしてもこの本はあてられちゃう(笑)超強力なリキッドのLSDを舐めたみたいな、も よれよれになっちゃうんだけど…かなり やばい!あたま ぶっこわされる!うわ~☆ 今までの自分・ファック…みたいな、超バカだったのね ぼくみたいな(笑)」

(^ο^)「あ、そ、そんなもんなの!?それってやばくな~い?―ま いいや。ところでソーカルらによるポストモダン批判というのがあったけれども、ドゥルーズの学術的整合性も問われていたわよね」

C☆「あ そうだね、不勉強で読んでないけど…でも例えばドゥルーズは3章「道徳の地質学」の中でみずからを荒唐無稽な弁士としてチャレンジャー教授に擬えて自らを揶揄している節もあるし―最初にもどると学術サイドからの整合性といったものとしてではなくて、ひとつのお話として、カルヴィーノの仮説小説的に読むってのも、楽しい読み方ではあるでしょ。ニーチェのいう「悦ばしき知」としてね」

(^ο^)「活字LSDってことか…」

C☆「ピンチョンが活字LSDであると同様に―スーパードラッギーな本だね、こりゃ!ま ぶっとび~ってとこで おちまいなのだ」


(^ο^)「あ あ あゆ~くれ~じ~?」

C☆「お~ いぇ~☆」

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