バカ田大学なのだ!?



バカ田大学なのだ!?―「天才バカボン」より

赤塚 不二夫 / 筑摩書房





天才バカボンの大神秘―バカボンのパパの知能指数は12500なのだ!?

バカ田大学後援会 / ベストセラーズ



☆バカ田大学校歌
まず最初にバカ田大学に敬意と尊敬を捧げ、校歌を歌ってみたい。

「♪♪ みやこのせいほく~わせだのとな~り~ばかだ!ばかだ!! ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだぁ~ぁぁああ!!♪♪」

☆とっくの「父ちゃん」に「かぁちゃん」
著者の赤塚不二男は平成10年度の紫授褒章を受章している日本を代表する漫画家である。何度か、アニメ化されており、TVシリーズでおなじみではあるけれども、マンガの方はさらにナンセンスで、はてな「?」(「れれれのおじさん」風にいえば「れれれ!?」)と思わされるところが多く、純粋にこれは「メタ・ロジカル」の次元、「不思議・鏡の国のアリス」に見られた超論理性の物語ではないのか!、という印象を抱いた。と―いうことはこの超論理次元の物語群、つまり「アリス」を嚆矢として―ジェイムズ ジョイスの「フィンガネス ウェイク」や「ユリシーズ」、トーマス ピンチョン、ウィリアム ギブスン「ニューロマンサー」やJ・G バラード「スーパー カンヌ」や映画「MATRIX」らに見られるSF的超論理物語群を支える、現実の二重化―言葉というものが二重の意味をもち、わたしたちのこの社会はその二重化されている言語の「現実」(リアル)といわれている側の言葉しか使用しえていないわけであり、つまり「ちゃんと」言葉が補完されてはおらず、言語の世界の総体としてのより「きちん」とした補完をするには、そのもう一つの側の言語が補完される必要があるということを伝えてくれる一連の物語群に位置付けてもよいのではないだろうか。すなわちこの社会の言語は明らかに一つの方向でしか使われてはいない(☆命令語―意味を伝達すること―メッセージ)のだが、あきらかにこれは言語機能における「機能不全」、すなわち「言語的脳梗塞」状態なのである。だからこそ、わたしたちは言語をより完全な状態に、その機能をもどす必要があるのだろうし、そうしないことには「にっちもさっち」も行かない社会が、もう「とっくの父ちゃん」に「かぁちゃん」していることは明確なのである。
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☆ストレス解消としての「こにゃにゃちは」
この本では「こんにちは」は「こんにちは」ではない―ではなにか?「こにゃにゃちは」なのである。「こにゃにゃちは」とは音節の構造分節的に「こんにちは」ではない音節の構造分節であり、そうなりえたかもしれないという言語的可能性を含んだオルタナティブとして、機能している。(これは「DRスランプあられちゃん」のあの「んちゃ!」、あるいは映画「MATRIX」でホワイトラビットについて行ったネオが選ぶレッドカプセルと同じく、もう一つの世界開示をさせる合言葉であり、暗号なのである)だから日常の退屈にすっかり疲れ果てたときや世界の単調さにすっかり飽いたときなどに囁くべき言葉としては、慣性の線にしたがった「たいくつ~!」「あ~ 超つかれた!」や「だりぃ~」であってはならず、むしろ「こにゃにゃちは」であるべきではないだろうか。ストレスがあるひとつの視座からなる慣性線の瘤であるならば、むしろ視座の法則にしたがうのではなくて、視座を転移させること、転送させることが重要であり、あとはパパの鼻毛を「イマジネート」すればよいのである。「こんにちは」を「こにゃにゃちは」に置き換えること。そしてそうすることによって、頭を「もみもみ」することがこそ、効率UPにつながってゆき、日本の「こにゃにゃちは」化、つまり本来持っている超論理性のより一層の超論理化を推進させ、テクノユートピア都市論を異化させることによって、活性化させる可能性があるように思う。ギブスンが示唆して見せているように、現代テクノロジーがもっている機能性を推し進めることによってもたらされるのは、おそらく肉体と精神と論理の徹底的な分解であり、それは期せずとも、「超論理的世界」を開示させようとしている。わたしたちは準備する必要がある。超論理の世界へ、身構えることなく、飛び込むこと。そして分解された断片的な世界をもう一度平面状に組み合わせること。そしてその時の合言葉、暗号として、この「こにゃにゃちは」が意味を持ちうるように思う。
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☆戦闘的日常
「我々は、この一遍をもって、戦闘的日常への招待状と考え、段階的高揚と一点突破の全面展開において、マヌーバ方式とマヌーケ方式で、大衆次元への埋没をはかりたい。さらに幻想のみ人を動かすとどうじに、ゼンマイのみが時計を動かすという事実はない!!
同志諸君!!
これより泥沼的発展と造反有理の「天才バカボン」キャンパスの珍動詞とヤジキタ珍道中で、断固、反対の賛成とするものである!!」(「同志諸君」p245)

この一文は赤塚の社会に対する戦闘宣言だといっていい。つまり、赤塚は、マヌーバ方式とマヌーケ方式によって、戦闘的日常生活へと招待状を送りつけているのであり、これは三島の喝同様に戦後の高度管理社会に対する「反対の賛成」に他ならないのである。

☆バカ田大学校歌
最後にもう一度バカ田大学校歌を歌ってしめてみたい。

「♪♪ みやこのせいほく~わせだのとな~り~ばかだ!ばかだ!! ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだ!!ばかだ!ばかだぁ~ぁぁああ!!♪♪」


☆みてもいいしみなくてもいいけど―補足なのだ!
☆ナンセンスと道徳(「ドゥルーズ」舟木亨)
ことばにおいてシーニュを成立させているものは、相互に通じ合うということだった。通じ合うように語るためには、正しく語る条件を与えるものとして、文法や論理が必要であると考えられよう。またとりわけ「正しく」語るには、ことばによって条件づけられない事物ないし精神の世界との結びつきが必要であろう。そうでないにしても、少なくとも語られる事の意味が真となる条件が存在するはずである。このようにして、正しく語られる条件をこれまで多くの哲学者が問題にしてきた。
だがドゥルーズは、そうしたことが議論されるのも、何かが語られているにもかかわらず、正しくないとされる語り方が現になされ得るからだということを強調する。それが「ナンセンス」なのであるが、ここで注意すべきは、ナンセンスが「無意味」なのではなくて、意味があるけれども正しくないものとされるもののことだということである。ルイス キャロルが一連のアリスの物語のなかで試みているのは、このナンセンスのユーモラスな探究である。
ナンセンスは通常、いい間違いや勘違い、事実の誤認や歪曲から生じてくると考えられる。だがその場合は、語ったひとの文脈や背景が知られれば、それらは必ずしもナンセンスというわけではなくなる。
しかし純然たるナンセンスというものがあって、それはことばがことばに対して使用されるときに生じてくるものである。たとえば「たらの目」という歌について考えてみよう。「歌の名は「たらの目」である」とだれかがいう。では「歌は「たらの目」と呼ばれるのか」と、アリスなら尋ねるであろう。アリスの問いは、ひとを混乱に陥れるに違いない。歌と呼ばれるのは、「音声を使ってメロディを生み出すやり方」のことである。その歌なるものには名があって、それが「たらの目」だということではないはずである。
「歌」はそれ自身が名であるとともに、歌という音声からなる事象を示している。ことばのシーニュにおいて、素材であることばと指示されるもの(意味)については、指示されるものもまたことばで表現され得るのだから、ことばのなかだけでは、その両者を区別する手立てがない。ところが、ことばの世界でしか語られないことは、あまりに多いのである。だから、たとえば「歌」は日本語なのである。こうした発想がナンセンスをうむ。
なるほど、そんな発想をするひとは「おかしい」。つまりユーモア感覚のある面白いひとなのか、現実感覚が狂っている危ないひとなのかのいずれである。しかし、このような発想による表現は文法的に間違っているわけではないし、非論理的なのでもない。とすれば、逆にことばを正しく受け取って、上のような発想をしないひとが、道徳的に「きまじめ」なひとだということになるのではないだろうか。
ひとは手持ちの語彙を使って何でも自由に語りえるのではなく、「正しく語ること」の秩序に従ってしか、なかなか語りえないのである。そして、その秩序は、真なるもの、ないし現実的なるものの秩序とされているが、時代とともにそれが変化していくのだとしたら、その秩序は基本的に文化的道徳的なものにすぎないのではないか。

☆言語の世界
したがって、言語が成立する世界と、そのなかでの「正しく語られること(語るべきこと)」の秩序を区別しておかなければならないであろう。これまでは正しく語られたことばをのみ言語のモデルにしたために、この両者が混同されてきたのである。ドゥルーズによるとこの後者の秩序を規定するのは、良識(BON SENS=よい方向)と常識(COMMON SENSE=共通感覚)である。
かれによると、良識という語は命題の意味する一定の方向として、正しい解釈の仕方があることを示しているが、その裏返しとして、命題はその方向以外の方向でも理解されうることが前提とされている。他方常識という語は、人々に共通に感じられるものといて、その正しい方向によって見出される意味の一定の領域を示しているが、その裏返しとして、命題は多様な意味を持ちうることが前提とされる。
それらの方向や領域に対して「ナンセンス」と呼ばれるような別の方向、別の意味領域が存在し、それがしばしば良識や常識と混同されるということは、言葉が正しく語られる事の集合なのではなくて、まずその内部で照合しあいながら成立する自立した体系をもっているということである。
ひとは人間言語の本質を、音声の分節化や統辞法の確立や象徴機能によって定義しようとしてきたが、ドゥルーズによると、言語の本質は自己言及によって生じる「ナンセンス」というタイプの意味の出現によって規定される。あえてナンセンス(冗談)をも語れるようになったときに、幼児は言語能力を獲得したと知られるであろう。

結局われわれは「真ではない」とか「現実的ではない」といって、命題の特定の意味を退けていくのではあるが、その根拠を尋ねられれば、それもまた命題によって答えるしかないとすると、真であるもの、現実的なものは、ひとびとが肯定するもの、ひとびとにそう「見えるもの」にすぎないのではないか。そしてひとびとが見ようとしているものは、むしろ言語がその意味を表現しているにすぎない「出来事」なのではないか。
ドゥルーズは、言語がそもそも事物や観念を反映する道具や素材であるとする見方を退けて、言語はそれだけで独自の世界をつくっているという事、そのなかで「正しく語ること」の秩序も内在的に生じてきているということを主張する。 そして、かれは、良識という語り方や常識という公式的な諸命題が、われわれの語る言葉を「正しいもの」として、道徳的(社会的人間関係のなかで)規制しているだけだと考えたのである。

by tomozumi0032 | 2006-08-27 20:47 | 天才バカボン
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