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ドゥルーズ2

以下 ドゥルーズ1からのつづき☆

3、「根源的抑圧」=表象一般は「欲望する機械」が受け入れる抑圧の結果として生じると考えられる。欲望は抑圧を被るが、抑え込まれて消滅してしまったりするものではないのだから、抑圧は欲望を押さえ込むと同時にその代わりのものを与える。そこから「抑えこまれる欲望」「抑えこむ欲望の作用」「抑えこまれたかわりに与えられる表象」の三つの契機が見出される。
欲望のサイクルとは、人間が生きているということ、生命であるということであった。生命は定義からして死の反対物である。それ自身は死ぬものではない。ところが、細胞や個体や種は死にいたる。ある意味で細胞は個体の形成・成長・保存のために死ぬのであり、個体は種の存続のために死ぬのである。その結果として、種の本質を担う胚種は細胞から細胞へ、生殖細胞を伝って個体から個体へと転移しながら、また進化を通じて種から種へと生成しながら、永遠の生命であり続ける。
人間とはその意味で「胚種」であるということもできるが、それは人間経験が無限の欲望のサイクルにあるという意味になる。 自分が胚種であるという経験があるとすれば、それは無限の時間を感じ取ること、無時間的に多様な強度が一挙に直観されることであり、いわばブラックホールの経験のようなものであろう。われわれの経験一般の、想像を絶した反対物である。ドゥルーズ=ガタリはそのような反経験を「胚種的渦流 」とよんだ。
経験の始原におけるこの「胚種的渦流」に対して、生命は個体へと展開し、進化の道のりを歩むようになる。われわれの経験は、時間的に質的なものとして展開し、空間的な広がりのなかで量的にあたえられるようになる。この移行については「アンチ オイディプス」のなかでは「根源的抑圧」ということばによって説明される。 欲望は任意に抑圧されたり、されなかったりするものではないし、外部から抑圧されるのでもない。抑圧とはみずからを禁じて抑えこむ欲望のことであるが、欲望は根源的にそのような欲望をもっているとされるのである。このことは、理論的に不可能ではないというくらいにとっておいてよい。というのも、われわれは抑圧されたものとしてしか欲望を知らないし、抑圧なき欲望もまた考えがたいものだからである。
したがって「根源的抑圧」とはビッグ バンのようなものである。それによって「欲望する機械」が無数に分散されながら生じる宇宙開闢であり「欲望する機械」はその宇宙の表面に展開して、相互に流れたりきったりするようになるのである。根源的抑圧によってこそ、欲望する機械はひたすら流れる一者ではなくなり、一方でそれを抑えこむ集積複合した機構になろうとするし、また自分自身を切ったり受け取ったりする表象を世界をもつことになるのである。
4、種という見地からしてみれば、重要なのは群集であって、個体ではない。現代生物学によると受精細胞の分裂の初期には、どの細胞もそれぞれが一個の有機的身体になりうるだけの情報をもっており、逆に、どの器官へと成長していくかについての情報はもっていないということである。分裂した諸細胞は成長の諸段階において、相互の位置や環境に応じて、生成すべき各器官へと自己限定していく。個体としての有機的身体は欲望する機械が複合して生じる布置以外の何者でもなく、単独で実在するものではない。身体における諸器官の有機的統合とは、直接に社会体制(社会身体)そのものではないかと考える。種に属する個体が有機的身体をもっているのではなく、社会体制が諸器官の接続や配置と同時に、諸個体の表象をも与えているのである。その意味では、むしろ社会体制(社会的身体)の方こそ、文字どおり有機体なのである。
5、「アンチ オイディプス」においては、社会体制(社会身体)は分子量的な現象であるとされる。分子量とは分子が一定集合して、人間経験に特定の現象として理解されるものとなったような「個体」のイメージである。人間の通常の経験は、分子量的なものであって、それによって与えられるイメージは仮の姿にすぎない。社会体制も「欲望する機械」という分子が集合して、その分子とは別のイメージが作り出されたものである。「欲望する機械」は、それ自身では秩序はもたないが、集積複合されると社会体制と秩序と人間経験とを出現させる。それは抑圧という精神分析的論理を介して、人間経験を表象的なものとして構成するのである。
6、身体とは「欲望する機械」が集積複合した効果が生じる表面のようなものであり、その集合に内在している目的性が投射される外部である。社会体制とは、その公開として身体の表面に表象された無数の諸器官(欲望する機械)のあいだで生じる有機的関係である。 その関係において、種の個体の有機的身体や人格的人間身体がまた、身体それ自身の表面に投影されているわけである。このようにして、ひとつの身体のうえに無数の身体が描き出されることは、決して矛盾ではない。この場合の全体とは部分の総和ではなくて、部分の総和を指示する別の部分なのである。社会の有機的体制は諸部分(欲望する機械)が全体(ひとつの身体)とは別のものであるかぎりにおいて生じる仮象なのである。そのようなものとしてわれわれは全体についての表象をもつが、それはわれわれの生きている諸部分のありのままの姿ではないのである。
7、「器官なき身体」とは全体と諸部分とが合致し、表象が欲望する機械の全体制と合致した状態-それは「欲望する機械」が完全に展開されつくし、もはや欲望するものと欲望を押さえ込むものの配置が完全に無差別になって多様性や局在性が消滅し、凝固した無数の「欲望する機械」となり、器官機械は消滅し、その無差別性として、諸器官の絶対的外部が姿を現すときのことである。
8、「器官なき身体(非有機的身体)」という概念は、アルトーが彼自身経験した苦渋に満ちた身体の究極的状態であるが、それは同時に、マルクスが「経済学哲学草稿」の中で述べた、一切の物質が人間の生活と結び付けられて、自然が消えてしまう未来の状態のことである。
9、 「器官なき身体」は決して到来しない未来において、つねに現在に対する影としての姿を現すのである。要するに「器官なき身体」とは全体の実在的表象として真理のことであるが、実は、社会体制(社会的身体)につきまとう社会の死のことなのである。
10、「器官なき身体」とは欲望する機械の自己生産が無限にまで到達した世界、生産自身が欲望されているだけの世界(「欲望する生産」)のことである。それは抑圧が完全に解除され、資本の自己増殖が完全になった社会であるが、その結果、あらゆる欲望がホワイトノイズ(あらゆる周波数成分が含まれたザーッという音)のように無秩序に存在するだけで、まったく資本主義としても機能しなくなった死の世界である。

まとめ-以上から「器官なき身体」と「欲望する機械」との関係は以下のようになる。すなわち生命の現在とわれわれの経験を「胚種的渦流」と「器官なき身体」の中間において理解しようとする際に主題となってくるような概念が「欲望する機械」だったのである。「胚種的渦流」と「器官なき身体」というこの始まりと終わりは実際の時間的展開における最初と最後ではない。このふたつは精神分析の論理を徹底化したところに生じる概念である。
精神分析においては、意識は無意識の論理を知ることによって無意識を推定することができるとされるが、そのことによって、原理的に意識が知りえないし解決もできない諸問題に光を与える。このことの徹底化とは意識の純粋化や実験手法の徹底化ではなく、現在の現実を意識と無意識の混淆(混合物)として捉えてその精密な批判をすること、すなわち基準を確定して理論的限界を指摘することである。すなわち基準を確定して理論的限界を指摘することである。「胚種的渦流」と「器官なき身体」というふたつの概念は、理論的限界を示す到達点としての絶対的過去と絶対的未来なのである。

★欲望の論理学
「アンチオイディプス」は諸器官相互の能動性に視点を移動することによって、人間主体(個人)を宇宙の中心から追いやり、生命と機械、目的論と機械論、意識と社会が、もはや対立しないものとして捉えられるような総合的な観点が実現されている。「アンチ オイディプス」の中心的主題は、現代とそこで生活するわれわれの経験の意味を根本的に明らかにすることにあった。
資本主義であるということの人間的意味は、マルクスが指摘したように、「資本の奴隷」になるということである。資本は、その剰余価値を広告や戦争や環境破壊といった浪費に費やして生産をあおりつつ自己増殖していく。資本家の贅沢とは、生産をさらに増大させることであり、労働者は、一方で労働に見合わぬ賃金しか獲得でくずに、他方でそれを使って生産物を消費することに追い回される。
「欲望に支配される」といわれるそうした奇妙な人間の行動は、マルクス主義においては「労働の疎外」として、人間の本質である労働が人間にとってよそよそしいものになってるからだ、とされるが「アンチ オイディプス」ではそのことが、オイディプス コンプレッスの歴史的意味を通じて理解されなおされることになる。精神分析のいう心理的な意味においてではなく、欲望が生み出す集積複合のメカニズムによって理解される。
「アンチ オイディプス」の書き出す歴史は、マルクスの考えた弁証法的な歴史ではないし、ましてや実証的な歴史ではない。それは、論理的な意味で、資本主義が生成してくるプロセスを示すことを通じて、資本主義が何たるかを説明しようとするものにほかならない。知識がどのように生成してきたかを説明する発生論な論理学というものがあるが、そうした意味で、「アンチ オイディプス」が述べている歴史は「欲望の論理学」が展開されたものなのである。

「アンチ オイディプス」の中ではこの歴史は野生時代、野蛮時代、文明時代として提示される。野生と野蛮の時代は資本主義である文明時代の時間的に以前にあるというよりは、論理的にそれを準備し、またそれを構成しているものとして描き出される。上述のようにこれらはフロイトの文明的抑圧の過程を描いた文明史観であることに留意されたい。

★野生時代
「胚種的渦流」という種の個体の胚種をもつ人間は先祖から子孫への膨大な世代のながれのなかに位置する。「私が何者であるか」と問う経験は、私が祖先のだれかれであり、その誰もであると同様に、私が私の子孫の一切の可能性であることを与える。またそのことを通じて、私はすべての種を生じさせた神であり、あらゆる種の個体で在り得ることを与える。こうしたことをまともに考えさせるのは精神分裂症の妄想においてでなければ、輪廻思想においてであろう。
そのような「胚種的渦流」の経験が抑圧されるということは時間そのものが発生することによって、種が分離され、世代が分離され、群衆と個体とがあらわれてくるということである。レヴィ ストロースによると、近親相姦の禁止からなる婚姻関係の論理が世代と血統(出自)とを分離して統合し、先祖をさまざまな動植物に求めるトーテミズムが、各部族を分離して分類の一般原理を確立する。どちらが先立つということもなく、前者によって個体が、後者によって群衆(血族や部族)が出現するといえる。つまり近親相姦の禁止が個体を、動植物を頂点とするトーテミズムが群衆を生む。

野生時代の社会的機械は、要するに自然と人間の有機的関係を形成しているといってもよい。人間は土地との関わり(地縁)に基づいて生活しており、みずからの社会形成を自然的諸対象の生命活動から区別していない。土地とはテリトリーが近親相姦の禁止によって人間化されたものだと考えることができる。
その意味で野生時代の社会機構は「土地的社会的機械」と呼ばれ、身体とは土地のことだと説明される。それぞれの土地の諸状態の配置に、諸対象と諸器官の結合としての生命的ないし霊的個体(もの)と親族関係の交点としての個体(ひと)の系譜が登記され、その登記に従って人間が生活しているわけである。

ある日突然、土地社会的機械のなかに征服者がやってきて、エディプス願望を実現してしまう。征服者は姉妹と近親相姦するというが、その意味はその社会の部族関係を構成する親族関係の血統には決して入らない独立した血統に属しているということである。そして、征服者は母との近親相姦をするというが、それは、征服ののち、親族関係の構造から外れているのに、その社会の中心的血統の女と結婚してしまうということを意味する。その結果征服者は従来とは異なった社会機構を作り出すのである。


★野蛮社会 
「野蛮社会」においては専制君主身体がヒラエルキー上位に属する。この社会機械体制下においては、従来の土地的な社会体制(社会的身体)は破壊されることなく、それが君主の身体で二重化される。あらゆることが君主のなのもとになされるようになり、君主の声(命令)に由来する法律・制度・組織といったものが、土地の社会的機械を支配し、収奪する。君主の身体が土地という身体を属領とし、専制君主の、文字通り「手足」となる官僚機構が出現して、みずから属領支配の地図となるのである。

蝶の口の形状が、進化の系統においては遠く離れた特定の種の花の構造に対応しているのと同じく、人間は植物を成長させ動物を繁殖させる手足を発達させた。そのような、すでにある自然的文化的コードを横領する手法によって新たなコードを生み出して、人間の生活と血族は多様性に富むようになり、社会は発展していくのである。

それに対し、専制君主は、その水平な接続の連鎖をそのままに、それを垂直的に統合し直す。コードを規定するコード(超コード)を形成し、それを通じて社会的発展の上前をはねる仕組みをつくりあげるのである。この仕組みが「専制君主の社会的機械」である。それを維持するのは、征服者の軍事力ではない。専制君主機械が一旦形成されると、君主の告知の体系(法律)と徴税の台帳が、すなわち表象についてのコードが出現する。要するに、「超コード化」を実現して維持する言語の構造と社会的機能が中心的役割を果たすようになる。

★言語の起源
ドゥルーズ=ガタリは、言語をも、普遍的な意味伝達の媒体などとしてではなく、欲望の論理学のなかで、段階を設けて説明する。 言語は社会的歴史的に規定される、「欲望する機械」の体制の一側面にすぎないのである。
野生社会における言語は、器官と部分対象の接続の延長において、身体への登記において理解される。それらに関する人間的コードの形成は、いわば森に道をつくるようなものである。それが集団的であって個体的ではないという意味は、一切の対象が、だれにとっても同じものとしてあらわれる徴表的記号としてあるということである。
野生時代における言語はそれぞれの対象がもっている効果と同様の効果を帯びた呪術的な記号である。人間が表出する図柄や音声は、はじめから器官と書対象の連鎖のなかに差し込まれている。音声は何かを意味しているのではなくて、人間諸機関と自然的対象にたいして効果を生じるかぎりで意味をもつのである。それゆえ、黒雲が雨のふる徴表であるのと同じように、図柄と音声は対象の連鎖のなかに含まれてしまっており、たとえば名を知ることが相手を支配することに繋がる。それは呪術として、人間の諸機関に直接効果を及ぼして、治療したり殺傷したりすることもできるのである。
これに対し、通常に言語であると考えられているものは、実は、野蛮時代の言語である。征服者の出現とともに、意味する言語、シニフィアン(意味するもの)とシニフィエ(意味されるもの)とをもった言語が出現する。というのも、征服者の音声と被征服者の音声には何ら共通するものがないのだから、これらを翻訳する必要がある。「真の意味」を媒介して通じ合わせるのではない。官僚機構を媒介として、君主の声が民衆の知覚と行動に転換されるのである。
「超コード化」を担う官僚機構を形成するものは、法律や規則からなるさまざまなエクリチュール「書き言葉」である。器官の集合的結合に参加していた図柄が民衆から取り上げられ、君主の声(命令)を民衆に提示するものとして、いいかえれば、支配者のことばの写しとして再構成されて、エクリチュールとなる。 エクリチュールとは、ロラン バルトによれば、パロール(話ことば)を文字に写し取るだけでなく、それに反作用して「正しい語り口」としてパロールを整えていく秩序のことである。エクリチュールが形成される結果、民衆の知覚や行動が、君主のことばの「意味」とされるが、意味とは、君主の命令に従った知覚と行動なのである。そのようなわけで、音声と文字の対応(表音文字)と同時に、ことばと意味の対応が確立されたというのである。

以下 ドゥルーズ3へつづく☆
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