坊主あたま

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☆坊主あたま
さいきん、きれいなパステルグリーンのバリカンを買った。
蛸足にコンセントをいれて、がーがーがーがー!と、じぶんでじぶんの頭を刈って、坊主あたまにしている。

坊主あたまの理由はいくつかある。

ひとつめは、もう5年以上ずっとかよいつづけていた表参道の美容院が新宿に移転することになってしまったから。そして、その美容院で髪を切ってもらう最後の最後の日に坊主あたまにしてもらったこと。

いきつけだった美容院の移転は困ったものだ。
路頭に迷ってしまう。

かといって、新宿までいくのも面倒だ。

新宿は六本木や渋谷同様に苦手な街のひとつである。
人ごみにもまれてまで髪を切りにゆくという気分には、とてもなれない。

あんな、めがめがの、びかびか、摩天楼つらなる巨大都市にまでわざわざ出向くのは、出不精で、家からでるのを好まないボクにはまったく向いていない。

それじゃあ、ご近所で、新しい美容院を見つければいいというが、長年をかけてつちかってきた美容師さんとの人間関係をまた1からつくりなおさなければいけないというのは、パソコンのOSの変更みたいにわずらわしい。

髪型は要するに個性と感覚のニュアンスだ。
なじみになるとこの人はこんな人だからこうね-のような感覚のニュアンスが理解してもらえる。そうすると楽なのだけれども、いわずもがな、この感覚のニュアンスを理解してもらうということはなかなか難しいものなんだ。いきつけの美容院の兄ちゃん、姉ちゃんとも最初はいろいろ試行錯誤があったが、3年ぐらい毎月かよって、なんとかニュアンスをわかってもらえるようになった。

―が、その店ももうなくなってしまった。

これがひとつめの理由。

ふたつめの理由は「ふけ」だ。

シャンプーがあわないのか、代謝がさかんなのか、加齢によるものなのかーさだかではないけれども、とにかく毎日「ふけ」が大量にでて、朝起きたときにマクラに雪のようにちらされた白い頭皮のカスをはたくのが日課になってしまった。

そこでボクは考えた。
代謝と加齢はしかたないとして、シャンプーを石鹸にかえ、指をタワシにかえることはできるのではないだろうか?-、と。
それは、坊主あたまならできる-、と。

それで、お風呂の時など石鹸をタワシにこすりつけて、ごしごしと頭皮を落とすことにした。

すりすり、ごしごしごしごし・・・ごしっ!

こうして、ふろ上がりは頭がピカピカするようになった。

光のあたる角度によっては、光が頭皮にたちかえって、本当にマンガのように「きらりっ!」と輝く。そんな時、う~ん、まぁ、なんだかんだいって、坊主あたまも悪くはないな、ふふふ・・・―と悦にひたるのである。ひとり。

そういえば、小さいころ、テレビに、自分の禿げ頭に卵の卵黄をぬって、「どや顔」で登場するおじいちゃんがいて、なんであんなことをするんだろう、禿げって自慢すべきことなのかしら・・・-と、おさな心におもっていたのだが、いざ自分が年を重ねて、坊主にしてみると、なるほど、この輝きだったのか!―とあのおじいちゃんの気持ちが少し理解できたような気がする。

なるほど、年は重ねてみるものだ。

最後の理由はもうちょっと簡単で、年始に「少林寺」に体験入学する日本の俳優の番組がテレビでやっていて、それにでてきた修行僧がかっこうよかったこと、それから映画「ガンジー」を見て、ガンジーの勇気にうたれたこと、さらに手塚治虫のマンガ「ブッダ」をあらためて読み返して感銘をうけたことにある。

でもよくよく考えてみると、そういった高僧のような坊主あたまもいれば、「一休さん」のような「トンチ」の破戒僧だって、もうちょっと身近なところでは、刑務所の人やヤクザ、野球部だって坊主あたまだ。

立派なイメージとDQNでやっちまったなぁ~ってイメージ、秩序正しいイメージとなにかトンチンカンなイメージと両方あって混じり合っている。そういった解釈の振れ幅のおおきい両義性が面白いと思う。

理由は以上で、個人的には楽で経済的でぴかりと輝くこのヘアスタイルが気にいっているのだけれども、いつぐらいまでつづけようかというのが目下のところの案件だ。

そのうち、そりあげて卵黄塗ってみようかしらん。

そしたら、もっと、ぴかりってするよね。
ぴかりって-さ☆
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